2011-03-25 23:07:12
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元禄大地震の津波記録

1703年12月31日に起きた元禄地震の記録に関する@kin_mokuseiさん訳による解説です。
当時の様子、今にも通じるものがあるような気がします。
by kuragetest
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  • よし、整形終わり。元禄地震記録のツイート流します。
  • 元禄大地震の津波記録:出典『房総災害史 ―元禄の大地震と津波を中心に―』(千葉県郷土史研究連絡協議会、1984年10月)所収「元禄十六年高崎浦津波記録」
  • 元禄地震:1703年12月31日(元禄16年11月23日 (旧暦:本記録は全て旧暦のままとし、現代語訳にあたって新暦換算は行っていない))の午前2時頃に起こった大地震。震源は千葉県南端の野島崎と推測されている。南関東~静岡まで、津波の記録が残っている。
  • では始めます。分かりづらいところがあったら教えて下さい。今原文が手許にあるので、分かる範囲で補足・訂正します。
  • 元禄十六年癸未、正月もめでたく行って、夏は旱魃、秋は台風もなく、冬になった。霜月の下旬の二十二日は快晴、よく凪いで海上も静かなままであった。日も暮れた夜の九ツ(午前0時ごろ)、突然地震が起きた。
  • みな家ごとに寝静まっていて、起き上がろうとしたが起きては転び起きては転びしてようやく立ち上がり、部屋の戸を開けて後ろへ出た。妻も三人の子を引き連れ、後ろの壁二間が外向きに倒れていたのでそこから後へ出た。親子皆無事で、門口へ回った。
  • 台所には下人が多数寝ていた。家は倒れ伏したが(下人は)梁の間になって押しつぶされなかった。裏手の小路に出るにも危ないこともあった。
  • 部屋の天井は南側の縁が外れて斜めに落ちたが、入り口の仕切りの内戸が一本部屋の内側に向かって外れ、天井の支えになった。(天井が)音を立て下へ落ちたならば、皆押しつぶされたことだろう。
  • 部屋の天井は南側の縁が外れて斜めに落ちたが、入り口の仕切りの内戸が一本部屋の内側に向かって外れ、天井の支えになった。(天井が)音を立て下へ落ちたならば、皆押しつぶされたことだろう。
  • 家は戌の年に作ったので十八年目であるが、板天井にすすが厚さ三、四寸もたまって重くなって落ちたのに、戸一本が外れてささえになってくれたというのは不思議なことであった。
  • なべて寝間の上にはコモでもはっておくべきで、板天井はいらないものだ。二つの蔵も倒れ伏し、厩も倒れ伏す、けれども牛馬は早々に飛び出して長屋の前にいたのであった
  • 石据え(礎石を据えて柱を立てること)なら柱を太くするべきである。柱が細いのはこのとき(地震の時)皆つぶれた。
  • 貫目は痛み割れて家が倒れた。さすは太く、梁は細く、敷桁をかけて四方の縄締めに気をつけること。釘は頼りにすべきでない。横を広く足元を強く、大根太木を十文字に入れるべきだ。昔は皆この通りであった。
  • この台にて倒壊を免れた家は(中略)であった。お宮は流れず何事もなく、薬師堂も香坊も何事もなかった。これ以外の家は全て倒れた。
  • 寝静まりに家が倒れたので、人死にがあった。
  • 古よりの言い伝えに、大地震があると必ず津波が寄せるというのを思い出し、「皆早く家を出よ」と呼びかけ、長屋の前に出たとき、磯際の方、清水の田へさあさらと波が押して追いついてきたのでミミョウドウ(字不明)へ逃げた。
  • (訳注:さあさら、は原文ママ)
  • 浜台の老若男女は、皆円正寺山の西方に上がって小松にすがっていた。寝静まりのことであったので、慌て、着物も帯も忘れ、真っ裸で出てきた男女もいた。
  • 杢兵衛が家へ戻って様子を見たところ、庭の内へ波が打ち込み、深さは腰丈、家の前の井桁が少し出ているくらいで、なにもかも海になっており、恐ろしいので家へ手早く入って御祓(札?)を持ってきて、また(円正)寺山(訳注:円正寺山はいわゆる山ではなく、小高い丘である)に登った。
  • 地震はいつもの揺れ方と違って細かにびくびくと揺れた。不気味なので、とにかく食物が第一と思って、宿(自宅のこと)へ人をやって米を四、五升取ってこさせて他人にも分けた。夜が明けるまで皆打ちかかり打ちかかり(うとうとしては目が覚める様子)いた。
  • 夜が明けても絶え間なくびくびくと揺れたので波が恐ろしくて非常に不安だった。(円正寺)山よりすぐに光泉寺を登り、子供を背負って昼時分に寿薬寺に行った。(訳注:寿薬寺は山の上にある)岡浜の男女が寺の上の畑に小屋を掛けていた。
  • 二十三日は夜通し小屋にて火を焚き、二十四日はまた岡の方へ戻って名主殿の庭に小屋を掛けていたが、皆、また津波が来るだろうと言うので、宿(自宅のこと)に帰らなかった。医者の金木玄貞老と奥方など、大勢いた。
  • しかるに皆言うには、北口から盗賊が来るという噂があったので苦労して用心したが、案に違って偽りであった。 ここでも地震の揺れ方が気味悪く、十二月一日まで岡の庭(寿楽寺)にいた。
  • その日七ツ(明け七ツか?)浜の宿(自宅)に返ってみれば、ああ、哀れなること、親は子を失い、子は親に後れ、夫は妻と離れ、幼いものも多く波にさらわれ、親兄弟が嘆き悲しむ様は本当に生者必滅会者定離、なかなか目も当てられない。
  • 心も言葉も消え果ててしまった。人ははかなきもの、ある人の云に、「寿命は蜉蝣のごとし、蜉蝣の朝に生まれて夕に死す、身体は芭蕉の如し、風に従って壊れやすし」と書いてあったは、思い当たって道理である。
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