ついに決定!第2回トゥギャッターまとめまとめ!2月25日開催!
  • liang_da
    ああ、そうだ。「神話が考える」という本を最近出版しました。そちらもよろしく。
  • liang_da
    さっき浅田彰さんからメールでお褒めの言葉をいただきました。初めて、この本書いてよかったと思いました(笑)
  • liang_da
    「意味の論理学」は傑作みたいな話もした。僕の印象では「意味の論理学」はストア派のへんてこな語源学も含めて、ハイデガーのヘーゲル批判のパロディを、哲学史と構造主義とメラニー・クラインの交点でやる、みたいな超ハイブリッドな哲学書。あのコンテクストはちゃんと読解してみたい。
  • masayachiba
    @liang_da 福嶋さん、どうも千葉です。ご出版おめでとう!これから読むところです。『意味の論理学』についてはこんどじっくり話しましょう。『ドゥルーズ/ガタリの現在』所収の上野修氏の論文がオススメです。いずれにせよ僕の博論で、かつてない『意味の論理学』解釈を出しますのでw
  • liang_da
    どうも日本のドゥルージアンの時間論ってむしろドゥルーズの嫌いなヘーゲルに近いので、意味の論理学はまともに読まれてないと思いますね。意味の論理学はむしろ、存在と時間の書かれなかった下巻を、文学のコンテクストでやり直す、みたいな議論。そう読まないと「純粋生成」とか理解不能でしょう。
  • liang_da
    ちなみに、ストア派の語源学問題はA・A・ロングの「ヘレニズム哲学」が良書。ストア派ってある意味ではデカルトとかスピノザにさきがけて「無限」の問題を考えていた連中なので(反アリストテレス的に)、まぁ面白いと言えば面白いよね。
  • liang_da
    批評の扱う対象としては(1)社会との関係、(2)欲望との関係、(3)情報との関係のおよそ三つがあって、僕の本は(3)に特化している(そしてそれがまた(1)にも還流している)ということが読む上での一つのミソです(笑)
  • liang_da
    それで言うと、「意味の論理学」は、キャロルの小説において(2)のレベルが(3)のレベルに侵食されていく話を扱っているとも読める。アリスという前エディプス的な主体性、脱性化された主体性が、きわめて思弁的な情報のパズル・ゲームによって取って代わられていくという話。
  • liang_da
    ラカンの言説が欲望のなかで欲望の限界を吟味する「純粋欲望批判」(ジジェク)だったとして、ドゥルーズはその抜け道を観念的ゲームの重なり合いに見ている。法政大学出版局の翻訳は、特に後半、誤訳や訳し落としが多いのでわかりにくいですが英訳本を見るとそのへんの構造が分かります。
  • liang_da
    河出文庫版は読んでないのでわからないですがどうなのか…。ともかく、僕の印象では「意味の論理学」は、ラカンからの抜け道をゲームとか情報とか言葉遊びに見てるところが斬新なので、ぜひこれを機会に再読していただければ。もはや古典的著作でもあるし、ポモがどうのというレベルでもないでしょう。
  • masayachiba
    日本のドゥルージアンの時間論がヘーゲル的ということはないでしょう? 誰のことを念頭に置いているのか、よくわからないな。RT @liang_da どうも日本のドゥルージアンの時間論ってむしろドゥルーズの嫌いなヘーゲルに近いので、意味の論理学はまともに読まれてないと思いますね。
  • masayachiba
    僕は、マラブーを経由してヘーゲル的否定をドゥルーズに読み込むということをしていますが、これはトリッキーなことであって、異端です。とはいえ、ドゥルーズのヒューム論に遡ることでその読解はある仕方で正当化できる。
  • masayachiba
    多くのドゥルージアンは肯定性の存在論へと直行しますが、僕は、マラブーさんの考えともシンクロしつつ、「形成的」、「変形的」な否定性の存在論を考えています。
  • masayachiba
    「否定神学(というより「弁証法的思考」と言うべきだけど)とはそんなに簡単に手を切れるとは思えない」ということについては、僕にはいくつかの見解があり、難しい問題です。僕もまた「簡単に」手を切れるとは思っていません。この点については後ほどコメントします。重要な点です。
  • masayachiba
    いまのところ、僕は大きく二つの考えをもっています。(1)否定神学システムは、合理的思考のリミットを問うときに必然的に突き当たってしまうものである。それゆえに、そこから距離を取るためにも、それをいったんは経由しなければならない。
  • masayachiba
    (2)否定神学システムは、実のところ派生的なものであり、より形成的「かつ複数的」な否定性によって作動する存在論のほうがより根源的である。
  • masayachiba
    第二の立場は、複数性の思考をともかくもいちばん先に置くという、昔からの僕自身の直観にもとづくもので、東浩紀さんおよびマラブーさんとシンクロする立場です。
  • masayachiba
    しかし他方で、第一の、否定神学の不可避性を、完全に無視できるとは思わないのです。とくに、言語を使って批判=批評的(critical)な思考をするときに、どうしても否定神学的なリミットは作動せざるをえないとも思う。クリティカルであるためには、否定神学の経由を避けられない、、、
  • masayachiba
    それは、思考する「人間」の条件かもしれない。しかし僕は、合理的人間像とは違うような人間像を模索し、それを大胆に提示して見せることもまた、というか、それこそが哲学の使命だと思っている。ゆえに、合理的人間像のリミットを知りつつ、それをすっ飛ばすことも同時に考えたい。
  • masayachiba
    僕の研究課題で言うと、ドゥルーズには、否定神学性と、それを二次化してしまう考えとが、同居している。それが、サディズムとマゾヒズムの区別に重なっている(と僕は考えます)。
  • masayachiba
    サディズムとは、法が決壊する点において外部を希求するものであり、これは否定神学的です。しかしマゾヒズムは、与えられた法(世界のあり方)を決壊させたりせず、それを受け入れた上で変形してしまう(=二次創作的)。そこに作動するのが〈形成的で複数的な否定性〉である。
  • masayachiba
    ここで重要なのは、ドゥルーズが、サディズムよりもマゾヒズムのほうを言祝ぎつつ、しかしサディズムはダメだと言っているわけではないことです。ドゥルーズは、最終的にマゾヒズムに肩入れするものの、まずはサディズムの論理を明確化し、それをそれとして認めることから始めている。
  • masayachiba
    ドゥルーズによれば、サディズムとマゾヒズムは、暴力の方向を自/他のあいだで反転させたものではない。ドゥルーズは、両者それぞれに固有の問題を抽出する。それは、否定神学的否定性(S)と、形成的で複数的な否定性(M)を区別することであったように思うのです。
  • masayachiba
    それゆえ、僕は、ひとつの仮説として次のように考えている。ドゥルーズは、いったんサディズムへと向かい、否定神学的外部へと上昇するのだが、しかし(放物線状に)「折り返し」て、マゾヒズムのほうへと下降する。
  • masayachiba
    クリティカルな思考は、いったん否定神学を経由し、放物線状に折り返して、形成的・複数的否定性の本源性へと降りる。しかしまた、否定神学へと上昇し、また折り返して下降し、ということを反復する。「人間」はどうしてもこの往復運動をしてしまうように思います。いまのところの考えですが。
  • Content from Twitter

コメント

まとめを作成する