• popeetheclown
    色名の分類がなければ色として識別されない(日本人は虹を7色だと見るが,文化によっては2色と分類するところもある).一方,音も記号化されているが,1オクターブの中に音が2音しかないと考える文化はない.この違いに脳における色と音の処理の差異があるのだろう.
  • popeetheclown
    ぜひとも専門家に解説してもらいところである>脳における色と音
  • shokou5
    【脳における色と音】人は連続的なスペクトルを離散的なラベル (ことば) に基づいて分類します.ラベルの数は文化によって違いますが,だからといって知覚様式がまったく違うということはありません.ラベルづけされていない,微妙な色や音の違いの判断は,文化普遍的に可能です.
  • shokou5
    【脳における色と音】ただ「ことば」が知覚にまったく影響をあたえていないか,というと,そんなことはなく,記憶の効率化や注意の方向付けなどに対して「ことば」がもつ影響力は無視できません.注意を向けていないときの処理への影響に関しては,まだ議論がつづいています.
  • shokou5
    【脳における色と音】知覚される色が光の周波数だけでは決定されないことは,ゲーテの時代から指摘されています.日中の林檎と,夕焼けの中の林檎では,その表面から発せられる周波数がまったく違うにも関わらず,我々はそれを「赤」と認知します.このような知覚の特質を色の恒常性といいます.
  • shokou5
    【脳における色と音】我々は照明光の変化を無意識に考慮して色を判断しているのです.この恒常性に対応する脳活動が V4 とよばれる視覚領野で発見されています (Zeki, 1983).低次の V1 ではみられない状況依存的な情報処理の結果として恒常性が生み出されていると考えられます.
  • shokou5
    【脳における色と音】さて,音 (階) に関しても,やはり周波数だけではなく,文脈に依存した情報処理が行われていることがわかっています.たとえば無限下降音階という錯覚が知られており [http://bit.ly/19hoiC],ピンクフロイドなどが楽曲にこの現象をとりいれています.
  • shokou5
    【脳における色と音】視覚に関しては情報が脳のなかでどのように統合されていくかについて比較的,理解がすすんでいるのですが,聴覚はまだまだ,といった感があります.音情報の扱いづらさといった理由のほかに,聴覚では大脳皮質に到達する前にかなりの情報処理が進んでいるといった理由もあります.
  • shokou5
    【脳における色と音,そして言語】ここらの問題群を見渡して思うのは,「ことば」と「分節作用」を直結させてしまうことで生まれる誤解が多いな,ということ.カテゴリー知覚は動物界に幅広くみられる,言語成立以前の特質である.言語はそれを二次的に反映していると考えたほうがよい.
  • tricken
    この辺(の言語哲学側の誤解)に大変興味がある。via @shokou5 「ことば」と「分節作用」を直結させてしまうことで生まれる誤解が多いな,ということ.カテゴリー知覚は動物界に幅広くみられる,言語成立以前の特質である.言語はそれを二次的に反映していると考えたほうがよい.
  • tricken
    むしろ言語は、言語以前の知覚が行った意味分析を「それはそのままである」と錯誤させるような作用の方が強いのではないか、とも考えるのだけれど、根拠がなさすぎるかな。
  • shokou5
    文化心理学の実験結果を僕はそのように解釈しています.前期ウィトゲンシュタインは,思考と言語とを峻別して読み返すと得るものが多いように思います.RT @tricken: むしろ言語は言語以前の知覚が行った意味分析を「それはそのままである」と錯誤させるような作用の方が強いのではないか
  • tricken
    @shokou5 なるほど,私,2日前に井筒俊彦『意識と本質』を読み返して,「これはユング解釈だけではなくラカンの象徴界(人間にはコントロールし難い意味分節が固定されたモードにおける無意識のふるまい)を,ラカン理論抜きでせまったものかと読んでいたのです。 (from 円融くん)
  • tricken
    @shokou5 そのようにして井筒の禅の話を読んでいくと,まるで後期ウィトゲンシュタインの「ハエ取り壷からハエを出してやる」というようなものいいは,『無門関』や『臨済録』における禅僧の「日常意識における本質観の否定」そのものだなあなどと思い至ったのです。 (from 円融くん)
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    @shokou5 後ウィトは禅的だ,という言い方には我ながらナンセンスを感じるのですが,しかし「火かき棒事件」にみられる,ポパーのproblem(問題は解かれなければならない)と後ウィトのpuzzle(謎はほぐさねばならない)の差が,理解しやすいと感じる。 (from 円融くん)
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    @shokou5 あまりに愚かに迫る説なので,この辺にしておきますが,こういうことを改めて考えだしたのが井筒俊彦とジュリアン・ジェインズがきっかけなのでした。 (from 円融くん)
  • tricken
    言語は本質分節を担うのではなく,「本質分節を錯覚させ,つなぎ止める」そのようなものとして観ると,宗教哲学と言語哲学はかなり接近するように思われる。 (from 円融くん)
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    思ってるだけで,本当にそんなことをどういう風に論証できるのか,まるで見当がつかない。ともあれ,この日本に西田幾多郎,鈴木大拙,井筒俊彦の三人がいてくれたことに日本の宗教的知性の光明を信じられるのだった。まあ,仏教的には執着だからどうでもいいのか。 (from 円融くん)
  • shokou5
    .@tricken ぼくも 春夏の 井筒に つづき,二日まえまで 鈴木大拙と ウィトゲンシュタインを 併読していたりしたのでした.たしかに 象徴界にせまる 方策として 相通ずるものがあるなあ,と おもっていました.治療的とでも よべるような.
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    @shokou5 ユングの無意識観よりラカンの三界のほうが,「意識ではどうにもできない領域」の定義がよりstrictであるように思うんですね。そこで「勝手にコトバが(意識では思いもよらないところで)悪さしてる,という世界観。これが仏教ぽいなと感じます。 (from 円融くん)
  • tricken
    井筒の例で言うと,どうも前期ウィトゲンシュタインは宋儒の「格物窮理」とマラルメの苦悩とを合わせたかのような思考をしているように感じる。ところが後期に自分の問題を知るにあたり,突然「禅僧として向下道」するかのようにケンブリッジで暴れる。こういうねじれ。 (from 円融くん)
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    つまり,「言語と瞑想の双方により本質に迫ることができる」という宋学の20世紀ヴァージョンがFOLであり,しかしそれでは「神秘の前に沈黙する」というかたちしかできなかった。ところがそれは「意識の零ポイント」へ向かう修行と重なっていた。後ウィトは道をずれた。 (from 円融くん)
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    というような妄想なんですが。うーん。こりゃせめてジェインズもちゃんと混ぜないと面白い与太にならないな。 (from 円融くん)
  • tricken
    ともあれ,フロイト,ユング,ラカンの「ずれ」と,西田・鈴木・井筒の東洋哲学各論考との交点に「前期と後期のウィトゲンシュタインは,人間の潜在意識のはたらきについてどのように考えていたか?」という問いをおくと,鍵が開けそうな…それこそpuzzleかな。 (from 円融くん)
  • shokou5
    ここらへんの 話題は なんとか 実験にも 陰に 陽に くみこんでいきたいな.それが 日本人研究者であることの アドヴァンテージにもなるわけだし./いろいろ かたりたいのですが 携帯では 限界が ありますゆえ この あたりで 失礼します.有意義な 話題を ありがとうございます.
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コメント

  • m_um_u
    ああ、やっぱクオリアら辺りの話だったか。個人的にはとりけんの「人はことば以前に分節化してしまうもの」って話がおもろいな。確かめがたいけど
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