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  • roaming_south
    土曜日のレジュメ草稿アップします。も●る人のために。結局発表は五章まで。首尾一貫してないところや、余白の統一性のなさとかはおいおい直すつもり。欧文はもはや読んだとは言えないからカット←  http://s6.ql.bz/~archidor/omft/?page_id=98
  • shunskate
    @roaming_south レジュメ拝見させていただきました。私は『かくも不吉な欲望』は二元論の新たな解釈の試みが集められた論文集だと考えています。ブランショはクロソウスキーの二元論を「新しいグノーシス」と呼んでいます。彼は個人を心と身体、善と悪、多数と一つ等からなる二元論
  • shunskate
    @roaming_south として捉え、西洋に根源的であるグノーシス的二元論に由来する弁証法的な思考の位相を、全く別の位相、ドゥルーズ/ガタリは「選言綜合」と呼んでいる、へと移すことが主題なのだと思います。この論文集では、既存の家族から生まれた諸個人が、
  • shunskate
    @roaming_south 新たな家族、つまり彼の特異な共同体思想「普遍的売春」、へと向かっていることが確認できる、あらゆる思想の断片が散見されると思います。それゆえこの時、彼においては神も権威的な父も超越性と直接性を備えたエロティックな対象となっているのだと思います。
  • reger44
    @roaming_south レジュメ読ませていただきました。クロソウスキーのテクストはすっかりご無沙汰なので大したことは言えないのですが、「悪循環から脱出する」というようなことは彼のテクストからは読み取れないと僕は思います。悪循環がそれであるということを欲するのが無感動的反復
  • reger44
    @roaming_south というサドの議論と繋がってくるのではないでしょうか。もちろんバタイユからの批判を受け止めた彼のサド論が全て繋がるとは言い切れないところではありますが。あと、@shunsukateさんがおっしゃったような綜合は39頁のニーチェのアフォリズムの引用から
  • reger44
    @roaming_south 本当にそういったことが言えるのかどうか再考するべきではないかと思います。
  • roaming_south
    @reger44 ご指摘ありがとうございます。錯綜するうちに悪循環からの脱出をさも掲げているかのような言い回しになっていました。自分自身と同一であり続ける永遠の反復としての悪循環に対立する自己の廃棄として書いていたつもりだったのですが。
  • roaming_south
    @reger44 現段階では、一と多の議論へと持っていくための悪循環として理解しています。一章の後半部分は八章につなげようとしていたのですが尺の都合から断念せざるをえぬまま今作り直しているところです。実力不足ゆえわからなかった部分が色々繋がってきそうです。ありがとうございます。
  • shunskate
    @roaming_south @reger44 興味深いので少し話せたらと思います。僕が「選言綜合」で言おうとしたのは、文字通りドゥルーズ/ガタリの論文「選言綜合」のことで、二人がクロソウスキーの「消極的エディプス・コンプレックス」『わが隣人サド』から
  • shunskate
    @roaming_south @reger44 引き出してきた議論のことです。ニーチェのアフォリズムもこの辺の事情を踏まえると、「普遍的売春」には全く直結するとは思いませんが、とうのはこれはマルクスとフーリエの思想から(ここにベンヤミンも加えてよいと思いますが)影響されたもの
  • shunskate
    @roaming_south @reger44 なので、しかし、クロソウスキーがニーチェをどう読もうとしていたかは明瞭だと思います。
  • reger44
    @shunskate もちろんそれは承知しております。けれどDGの理論を持ち出したところでクロソウスキーの思想についてどうこう言えるものでもないのでは。あまり細かい議論をするつもりはありませんが、選言綜合は離接的綜合とも訳されるように分離されたものの距離こそが重要でしょう。
  • shunskate
    @reger44 距離は離れていることと同時に離れていないことを前提とする必要があります。クロソウスキーにおいても多なるものが一つの肉体を求めてしまうことが悪循環なのではないでしょうか?それにDGの思想を通して彼の思想を捉え直すという作業が無意味とは思えませんが
  • reger44
    @shunskate 離れているという前提についてクロソウスキーが言っている箇所としてさきほどの指摘したのですが。「両者をできるだけ分離した上で、[...]互いが互いを全く気にしないように共存させることである」というところです。
  • shunskate
    @reger44 僕はこの二つの運動の共存が問題だと考えています。人間の均質化と断絶としての私です。あるいは大衆と孤独者としてのニーチェです。離れていることはあくまでこれらの共存として考える必要があると思いますが
  • reger44
    @shunskate たしかに共存の語に注目するのは有意義ですし、それについて考える必要があるのもわかります。しかし距離があっても共存しているということと、その距離が乗り越えられるということは全く別の問題ではないでしょうか。
  • shunskate
    @reger44 僕はここで何かが乗り越えるとは考えていないつもりです。そうではなくあくまで多と一つのものが並んでいると考えています。一つのもので言いたいのは、距離の乗り越えではなくバフォメのように一つの肉体と多数の精神の共存です。そして、それとは別の大衆がいるということです。
  • reger44
    @shunskate shunsukateさんがそのように考えているということはよくわかります。しかし僕がそもそも問題にしているのは、そのようなことを論述するために離接的綜合という言葉が使えるのかどうかということです。
  • shunskate
    @reger44 これは僕の言葉が足りなかった部分です。DGはこの述語を通常の意味での選言綜合ないし離接的綜合としては用いてません。僕はこの思索の営みをクロソウスキーの思想と突き合わせるのは、有意義だと考えます。なぜならこれがクロソウスキーの作品の解釈として生まれたからです
  • reger44
    @shunskate もちろんそれは有意義でしょう。しかしなぜAOでは選言綜合という箇所でクロソウスキーが出てこないのかという切断。そしてカントが選言判断や綜合判断として言っていることなども同様に有意義であるはずです。クロソウスキーにだけ用いられる特権的な語ではないでしょう。
  • shunskate
    @reger44 もちろんです。カントのことも忘れてはなりません。クロソウスキーがハーマンを翻訳していること、それからわが隣人サドの著者あることもDGにおいてはこの語に含まれていると考えられるでしょう。それからAOの草稿の段階で彼らはこの著作はクロソウスキーの影響下にある
  • shunskate
    @reger44 それゆえ彼の固有名がその都度出てこないだけにその影響が全面的であると明言しています。クロソウスキーの名前が出てこないのはそのためではないでしょうか
  • reger44
    @shunskate そもそもが「その語に収斂されるべきなのか」という問いかけだったと思うので、その語について拡散していくというのも妙な話になってきましたね。けど、DGとクロソウスキーは離れていて綜合されるものではない(DKGとは表記しない)ことは忘れるべきではないかと。
  • shunskate
    @reger44 確かに妙なところです。そしてそれゆえ面白いところだと考えています。<綜合されるものではない(DKGとは表記しない)ことは忘れるべきではないかと。これは綜合されないという意味ですよね?
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