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  • takamatti
    言葉以外の思考ってあるのかな。意識できるのかな。
  • pesu1028
    しかしながら、現在に溢れる孤独には2種類あると僕は思っている。1つは顕在的な孤独、もう1つは潜在的な孤独だ。前者は我々が感じる(自覚する)ことのできる孤独で、例えば一人ぼっちだと思う瞬間などがそうである。しかし後者は潜在的、つまり無意識的な領域のため、語りえぬことの部類に入る。
  • pesu1028
    無意識の領域は語った(言葉になった)時点で意識の領域である。つまり、無意識を語るそのことそのものがパラドクスなのである。便宜上、「無意識」という言葉は使っているが、そんなものが本当にあるのかどうかすら、本来は僕らには語りえないのだ。
  • pesu1028
    もっと言えば、意識・無意識という二元論も当然、懐疑の対象となる。非常にややこしい言い方になるが、「意識することを無意識が引き起こしている」とすれば、もはや「意識」の生き延びる聖域はない。すべては無意識1つが支配していることになる。
  • pesu1028
    無意識とは何なのか。それは誰にも分からない。仮に分かったとしたら、それはもはや無意識ではない。この論理に従えば、美とは何かが分かった瞬間、我々は永遠に美とは出会えなくなってしまうことだろう・・・。
  • pesu1028
    何かを確信したとき、人はそのすべてを失うだろう。
  • pesu1028
    「この絵は何の絵ですか?」「この問題の答えは何ですか?」「これは何に使うものですか?」・・・。これらの質問は、可能性の扉を閉める呪文である。唱えれば唱えるほど我々の可能性が閉じていく。我々は早急にそれらを自覚しなくてはならないと思う。
  • olivlove
    言葉によって思考するということは、それ自体既に実用ということを前提しているのだ
  • olivlove
    他者に対して理解を得るには説得する技術だけでなく理解を得たいという情熱を明確に示す必要がある。人間とは善を発動する為の自己理由を常に探すそういう社会的動物だからである。他者から助力を要請されてその助力が可能ならば、人間は決して悪い気持ちはしないものなのだ。
  • takamatti
    たいていの人にとって、思考は言語であり、言語は音で構成されているかと思うんだけど、先天的聴覚障害の人は視覚で構成された言語で思考するのかな。ぜんぜん想像できない。
  • olivlove
    @kassy_jpn 意識と言葉は相補的でしょう。何故なら意識と意識出来るのは言葉があるからだし、言葉は意識のない状態では生み出されないから。言葉以外の思考は映像的想起、想像等ですが、そこに言葉も必ず絡む。言葉と意識がなければ言葉以外の思考(という考え)自体あり得ないでしょう。
  • olivlove
    意識は意識自体で自立しているのでなく、言語、思考、意図等によって成立している。言葉も言葉自体で自立しているのでなく、意識、思考、意図等によって成立している、以下全部同様。単一の根源とは幻想である。全て相補的でコネクション自体が存在なのだ。命題化可能なものだけを我々は存在と呼ぶ。
  • olivlove
    意識至上主義、クオリア礼賛主義を打破せよ。全ては記憶と経験によって形成され、認識、関心、意図によって意識が立ち上がっていると幻想しているだけで、純粋な意識も、純粋な言語も純粋なクオリアも一切あり得ない。純粋志向とは一種のロマンでしかない。
  • kassy_jpn
    ヘレンケラーは、何をどう感じ、どう考えたのでしょうね。 RT @olivlove: 意識と言葉は相補的でしょう。何故なら意識と意識出来るのは言葉があるからだし、言葉は意識のない状態では生み出されないから。言葉以外の思考は映像的想起、想像等です http://ow.ly/1c9hq
  • Abraxas_Aeon
    本能的感覚=運動の次元から文化的世界への飛躍を可能にするのが言葉の習得であるとすれば、ヘレン・ケラーが最初に習得したと言われるwaterという語はあくまでも触覚のイメージに過ぎないが、それは言葉の世界の最初の拓けであり、non-waterとwaterという最初の差異化でもあった。
  • olivlove
    @kassy_jpn 脳には可塑性があるから聴覚視覚一切がなくても、触角や声を発する際の身体の振動律動によって意味と一致させる事自体が出来るのでしょう。この場合触覚を意味理解の為、振動を聴覚的把握の為として間違いでない。代換機能があると考えればいいのでは?色彩さえ把握出来るかも。
  • Abraxas_Aeon
    @kassy_jpn こんばんは、参考にどうぞ。「まず心象、これがいかにして精神の内で発生するかを説明すべきである。ついで言葉、これが心象に適用される。最後に概念、これは言葉があって初めて可能となる。(F・ニーチェ)」
  • Abraxas_Aeon
    @kassy_jpn 私がこの主題にすこぶる面白さを覚えたのは、丸山圭三郎のソシュール研究書や彼のオリジナル理論ですね。自分の理論は最初ソシュールとニーチェの自分の中での対話によってできたとどこかで言っていたかと思いますが、『権力への意志』の下巻などを見るとそれを彷彿とさせます。
  • Abraxas_Aeon
    カタログとは、ギリシャ語の「カタロゴス(=整理のための目録)」、「完全に集めたもの」が元となっている。我々は言葉(ロゴス)によって事物を認識しているわけであるが、ヘレン・ケラーの一例に問わず全ての人間がある程度一定の尺度に従った対象化と差異化によって意識野にカタログを作っている。
  • SL_at_IDE
    @tsumbodogu @kassy_jpn @takamatti 思考は必ずしも言語ではないことは、最近の認知言語学の研究が示していますよ。ましてや、音声でもありません。音声や視覚はあくまで媒体に過ぎません。
  • SL_at_IDE
    @kassy_jpn これは言語の基本が何かという議論になります。生成文法の人たちが言う深層構造ですね。認知言語学の人たちはまた違うことを言っています。そうした言語になる前の段階で人間はけっこういろいろと思考しているということです。
  • Abraxas_Aeon
    意識・無意識の問題について、この前闇の帝王様こと@kassy_jpnさんがトゥギャッターにまとめられたのを読み返した上、集合的無意識、サルトルなどの話も出てきたので、このあたりをかなり執拗に分析した丸山圭三郎の批判と併せて考察してみたいと思う。
  • Abraxas_Aeon
    丸山は、サルトルが無意識について批判していること、及びフロイトが無意識について理論だてようとしたことを、メルロ=ポンティやハイデッガーを援用しつつ、両者をいっぺんに一刀両断している。すなわち彼らが意識か無意識か、と問うている内実は、実は言葉を変えているだけだったりするのである。
  • Abraxas_Aeon
    「サルトルの考える〈現象学的還元〉とは、〈非反省的意識〉である情動を〈反省的意識〉に引き戻す操作であり、彼がそれを〈反省作用〉とか〈浄化的反省〉と呼んだ理由も明らかになるだろう。これはギリシア以来の〈対象化〉理論であり、西欧の形而上学の根底にある思想である」(丸山圭三郎)
  • Abraxas_Aeon
    「くだいていえば、精神的には、漠然とした情動などを意識化する表象作用、物質的には、たとえば木材に働きかけてテーブルとか椅子と言った形を与える製作活動の重視に他ならない」(丸山)この点を見ると、サルトルの〈非反省的意識〉とフロイト・ユングなどの無意識はほとんど同じものを指している。
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