"sati"の訳語「気づき」についてのやりとり
- southmtmonk
- 21959
- 20
- 4
- 33
今の若い在家さんがやる瞑想なんかを重んじる仏教って、本来仏教用語ではない「気づき」とか、モロにニューエイジの言葉使うしなぁ。
2015-06-14 12:46:05「『気づき』は本来仏教用語ではない」と主張するツイートを目にしたんだけど、あれは原語のsatiを(英語でmindfulnessと訳しているように)一般には馴染みのない「念」という漢語ではなくて、わかりやすい現代語に訳したというだけであって、その意味では普通に「仏教用語」ですわな。
2015-06-14 14:42:05要するに、「気づき」を「仏教用語ではない」とするのは、かつて中村元先生が、パーリ経典を原意に沿いつつわかりやすい形で現代語訳して提示したのに対して、「聖典としての壮重さが無い」と批判した人がいたのと似たような話であって、それ自体としては、とくに根拠のない話であると私は思いますね。
2015-06-14 14:43:47twitter.com/neetbuddhist/s… あんまり大事な話やないので争う気はないけど、ニューエイジ用語のawarenessの訳語が本家のsatiの訳語に流用されてるっていうくらい意味で、awarenessが抑もsatiの英訳語ではあるんだけど、
2015-06-14 15:03:23だから本職の坊さんもバッチリ「気づき」って言葉使うんだけど、この「気づき」はsatiが直接訳された言葉でなく、ニューエイジ経由で訳されてて、当然ニューエイジのawarenessの感覚が含まれてるでー、っていうことで、これは日本の仏教が鳩摩羅什経由、漢訳経典経由だっていうのと同じ。
2015-06-14 15:28:57最初の「仏教用語ではない」というご主張との関連は不明だが、ともあれawarenessにしても、上座部におけるsatiの解釈のされ方は正確に拾っていると思いますし、それを「気づき」とシンプルに和訳するのも間違いではないと思いますね。 twitter.com/ms06r1a/status…
2015-06-14 15:14:09そもそもBuddhaという言葉自体が「目覚めた(人)」という意味なんで、こういうのにだって「ニューエイジ的」なニュアンスを嗅ぎとることは不可能ではないと思うけれども、そういう現代人の事情から原語の意義をごまかして訳すべきだと言われたら、それは「知らんがな」としか言いようがないな。
2015-06-14 15:20:23これは重要だからもっぺん書こう。satiをマインドフルネスとか気づきだとか言い換えたところで、何か説明したことになるかな? 寧ろ英語話者はmindfulnessと呼ぶことで、日本語話者は「気づき」と呼ぶことで、何かわかったような気がする、という効果しかないんではないかね。
2015-06-14 16:19:10これについては英語と日本語の多くの仏教書で、両語が最も端的でわかりやすい訳語として選ばれている事実があるからね。それを違うというのであれば、あとは中村さんの satiの解釈を示していただいて、その当否を争うしかないんじゃないかと。 twitter.com/ms06r1a/status…
2015-06-14 16:57:04私としては、mindfulnessはティク・ナット・ハンのような大乗の僧侶も普通に英語圏で satiの訳語として用いており、それが了解可能なものとして広く定着している現実がある以上、代替となる現代語での解釈・訳語を示されない中村さんの議論は、あまり説得力のあるものとは思われない。
2015-06-14 16:58:51漢訳の「念」について、従来の一般的な解釈では拾いきれていない意味を、わかりやすい現代語で示そうとするのが「気づき」という訳語の意義なのであり、それは現実にある程度は成功しているように思われる以上、代替案を示さずにその用語に難癖をつける意味は、あまりないのではないかと私は思います。
2015-06-14 17:01:00二点。まず第一に「sati を気づきやマインドフルネスと言い換えても説明したことにはならない」という主張なのだから、それは訳語の問題にもならざるを得ない。第二に「使われ方」の問題であれば、私はそれに続くツイートできちんと答えている。 twitter.com/ms06r1a/status…
2015-06-14 17:46:23twitter.com/neetbuddhist/s… 今までこの話が伝わったことが殆どないから期待はしてなかったけど、やっぱし伝わってねぇ。訳語としての妥当性ではなく使われ方を問題にしてたんだけど。
2015-06-14 17:28:45ただし、私は先ほど述べたように「sati を気づきないし mindfulnessと訳して伝えることは、日本語圏や英語圏において、ともに一定の成功を収めている」という立場だが、中村さんはそうはお考えでないようだから、そこは見解の相違として、これ以上の批判を述べるつもりはありません。
2015-06-14 17:51:39当方の論点としては、中村さんの「『気づき』は本来仏教用語ではない」という主張に対して、「satiの訳語として、それを『仏教用語』と考えても構わないだろう」と指摘したまでであって、中村さんが「訳語としての妥当性」を争わないのであれば、私としてはそれ以上に言うべきことはありませんな。
2015-06-14 18:04:51twilogにて "sati" の訳語をめぐるやりとりをdigってきました。
僕は、漢語を通過したために仏教の本質が日本に伝わらなかったというような議論に対しては懐疑的です。現代日本人が漢文をよめなくなってから言われ出したような話でしょう。
2010-07-14 02:54:06「漢訳仏典はサンスクリット語原典に比べると解釈がゆがんでいる」っていうようなことを言い出した近代のヨーロッパ式の仏教文献学者達は、当然、中世日本の学僧と比べるとはるかに漢文が読めないわけですから、その分は差し引いて話半分に聞いておかないといけないですよね。
2010-07-14 03:00:14それに、前にも書いたけれども、ニューエイジ系心理学の文脈で用いられている awareness の訳語としての「気づき」なんていういいかげんな言葉を、仏教の文脈に持ち込むのは好みではない。
2010-07-14 02:55:19@naagita 「気づき」という言葉は、ニューエイジや自己啓発などの文脈で曖昧に使われすぎちゃっているように感じています。だから、ヴィパサナーの文脈における念 sati については、そのままサティというカタカナ言葉を持ってきたほうが美しいのになと個人的に思っています。
2010-07-14 04:28:26.@goyou いや、念(sati, smṛti )の解釈に関しては、北伝阿毘達磨の解釈に縛られすぎているので、パーリ・アビダンマの研究家も「気づき」使ってますよ。倶舎論の解釈を援用してパーリを読むような無茶苦茶が実際あったから。これは間違いなく、漢訳・梵語偏重の弊害。
2010-07-14 04:01:34.@goyou 「梵語~漢文の流れを押さえておけば、パーリなんて余技で訳せるだろ、どうせ小乗だしな」という大乗系学者の傲慢な姿勢は最近まであったんじゃないの?
2010-07-14 04:07:09@naagita そういう傲慢さはあったと思います。結局、自分が依拠しているテキストを一番重要なテキストだということにしたくって、政治的なパワーゲームにしてしまうんですよね。部派仏教各派に始まって、現代の文献学者に至るまで。気をつけていないと、すぐにからめとられちゃう。
2010-07-14 04:35:05購入迷っていた春秋社『パーリ仏教辞典』をコクーン・ブック1ストで立ち読み。sati 周辺だけ精読したが、正直ぜんぜん使えない。そこで「記憶」はないだろう。修行を知らない学問だけの人の訳語センスはやはり違和感ある。パーリ学やる人は一時出家くらい義務付けた方がいいんじゃないかな?
2009-10-22 23:26:21