• 源氏物語は、宮中の人々にどのように伝わっていったか

    「源氏物語は、誰が書いているのかと宮中で噂になったと聞いた。宮中の人たちはどうやって読んだのだろう。宮中の人々に行き渡る
    ような写本体制が整っていたとは思えない。
    原本を回し読みしてたろうか。貸出し図書館の役割をしていた人がいるのだろうか。」


    「印刷の無い時代に、コンテンツはどのような仕組みで流通したのだろうか」という
    ふとした疑問で発したツイートだったのだが、予期したよりも遥かに豊かで有機的な仕組みであったことを大勢から教えていただいた。

    参考:最後に @ATborderless が示してくださったページにはそれぞれ次のようなことが書いてあった。





    ――――――『源氏物語』講座(其之壱) http://www.geocities.jp/hahakigi_no/one.html

      御前には,
      (中略)
      色々の紙選り調へて、物語の本ども添へつつ、所々に文書き配る。
      かつは綴じ集め、したたむるを役にて、明かし暮らす。

     寛弘5年11月(諸処定説あるところで言い切れませんが、有力説をとって1008年か)の『紫式部日記』に上記のような記述があります。意訳すると下記にとらえられるでしょうか。


      主人(=中宮彰子)と一緒に(御前には)
      清書すべき色々な色彩の用紙を準備して(色々の紙選り調へて)
      それに元の『源氏物語』を添えて(物語の本ども添へて)
      あちこちの能書家に(所々に)
      依頼文を書き送って(文書き配る)
      その(=できあがって返ってきた)冊子を製本をしたり(綴じ集め)
      題箋を書くなどしている(したたむる)
      「御冊子作り」の様子が描かれています。

      局に、
      物語の本ども取りに遣りて隠しおきたるを、
      御前にあるほどに、やをらおはしまいて、漁らせたまひて、
      みな尚侍の殿に、奉りたまひてけり。
      よろしう書き変えたりしは、みなひき失ひて、
      心もとなき名をぞ取りはべりけむかし。
      紫式部に与えられている御所の一局に、(局に)
      本などを実家まで取りに行かせて隠しておいたのを、(物語の本ども取りに遣りて隠しおきたるを)
      中宮の御前にいるときに、(御前にあるほどに)
      藤原道長がいきなりいらっしゃって、漁らせて、(やをらおはしまいて、漁らせたまひて)
      すべて尚侍(研子)に奉じておしまいになった。(みな尚侍の殿に奉りたまひてけり)
    この「物語の本ども」は、先の能書家に依頼し書写して献上した物語とは別物のようです。「心もとなき」とあるので、これは式部にとってまだ不完全なところのあった『源氏物語』かなと推測できます。それが藤原道長によって中宮彰子の妹(次女か)の枇杷殿研子のもとに献じられてしまったというのです。ここでの大前提は『源氏物語』の作者が紫式部(むらさきしきぶ)だと読み手が了解しているということから始まり、裏付けに至る過程を説明しております。

     ところで、当時の物語はすべて筆手で書写されたものですが、その当時の能書家に依頼して書写させて出来上がった本文は、豪華浄書本「源氏物語」として、中宮彰子の所蔵本となったことでしょう。(もちろん推測です。)これは今日現存しておりません。その元になった『源氏物語』は、各能書家のもとから浄書本と一緒に戻って来たか否かがはっきりしていないのが残念で、紫式部日記の「よろしう書き変へたりしは、みなひき失ひて」という言い方が、もしそれらをさすものとしたら、紫式部の手元に戻らなかったと考えて良いと思います。
     さて、能書家に依頼する「書写」についてですが、現代作家のように書き下ろしというわけにはいきません。印刷機械がありませんので、すべては書写で賄われます。
     時は藤原氏が摂政やら関白として政権を握っていた頃のことです。藤原道長といえば

      この世をばわが世とぞおもふ望月の
      欠けたることもなしとおもへば

    藤原実資(ふじわらのさねすけ)『小右記(しょうゆうき)』寛仁2年10月に記がある、上記の和歌が有名です。紫式部と藤原道長とは面識があったようです。紫式部が仕えていた彰子中宮は道長の娘にあたる方で、縁もあったものと思われます。

    定子・彰子中宮をめぐる略図

     977  定子生まれる(父=藤原道隆+母=内侍高階貴子(きこ))
     988  彰子生まれる(父=藤原道長+母=源倫子)
     990  天皇元服(11才)。定子(15才)参内。10月定子中宮。
     993  冬、清少納言、中宮定子へ出仕。
     996  『枕草子』一部流布(1101年成立)。5月定子落飾。
     999  彰子(13才)入内。
     1000 2月定子皇后、12月定子受領宅で出産、翌日没す(25才)。


    ――――――


    ――――――『源氏物語』は、藤原道長の「秘密兵器」だった!
    http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20070417



    『先達の御意見』(酒井順子著・文春文庫)より。

    (あの『負け犬の遠吠え』の筆者・酒井順子さんと、人生の「先達」たちとの対談集の一部です。瀬戸内寂聴さんとの対談から、『源氏物語』についての話)

    【瀬戸内寂聴:源氏には相当政治的な面もあって、六条御息所亡き後、その娘を藤壺との間の不義の子・冷泉帝のもとへ入内させ、御息所の財産をうまく自分のものにしたりしています。

    酒井順子:道長を通して得た政治の世界の話が、物語にリアリティの膨らみを与えたんでしょうか。ただ、『紫式部日記』には道長がある晩、自室の戸を叩いたけれども、どんなに叩いても自分は開けなかった、と書いていますね。

    瀬戸内:紫式部の日記は一番大事なことは書いてないの、韜晦趣味でね。大体、女流作家の日記は嘘が多い(笑)。自分に都合の悪いことは誤魔化してある。

    酒井:でも、”道長にせまられた”という事実はしっかり書き残しておくという辺りは、一種の自慢のような気もします。しかし、道長は紫式部のどこがよかったんですかね。

    瀬戸内:彼女の才能を政治的に利用したんでしょうね。当時、一条天皇をはさんで、清少納言の仕えた中宮定子のサロンと、道長の娘の中宮彰子のサロンがライバル関係にあった。どうやら中宮定子は素晴らしい女性だったようね、容貌も教養も。

    酒井:枕草子を読んでも、定子のサロンは明るくて楽しそうです。清少納言ものびのびと宮仕えを楽しんでいる。

    瀬戸内:一方、彰子は12歳で、天皇を引きつけるだけの魅力はまだない。そこで道長は、一条天皇の文学趣味に訴えようと、あちらが随筆ならこっちは小説だとスカウトしたのが紫式部。

    酒井:物語で天皇を釣るとは。ハードよりソフト!

    瀬戸内:声のいい女房の誰かに源氏物語を朗読させて、天皇が続きを所望されればしめたもの、「ではまた来週、お渡り下さいませ」と中宮彰子のサロンに足を向けさせる手段に使う。それに道長は、紫式部にまっさらの紙を惜しみなく与えています。

    酒井:あの頃、紙はとっても貴重だったんでしたね。清少納言も「生きるのが嫌になった時、真っ白で美しい紙によい筆が手に入ると、すっかり気が晴れて、しばらく生きていけそうだと思う」と枕草子に書いています。

    瀬戸内:道長本人は何か書いた紙の裏に、自分の日記を書きのこしてるんですよ。源氏物語への力の入れようがわかるでしょう。】

    ~~~~~~~

     瀬戸内寂聴さんのお話がすべて「歴史的事実」なのかどうか、僕もネットで調べられる範囲では調べてみたのですが、はっきりとした裏付けは得られませんでした。でも、この二人の話を読んでいると、少なくとも『源氏物語』という文学作品は、「芸術」としてだけでなく、「政治的な駆け引きの道具」として使われた面があったのは事実のようです。少なくとも、紫式部が個人的な趣味だけで書いていたものであれば、「道長からまっさらの紙を惜しみなく与えられる」ことはなかったでしょうから。

    ――――――

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    by akof
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