トマス・アクィナスの『神学大全』は、中世哲学史のなかで、もっとも有名な作品の一つだ。だが、実際それを手にとっても、邦訳で数十巻にものぼる膨大な量も災いとなり、この書物をどのように読んで良いのか分からないと、少なくない人々が感じるようだ。そこで、私は一つの読み方を以下で提案することにした。前提として、この書物は入門者のために書かれた著作であるという事実を忘れてはいけない。それは、知識がない初学者でも読むことができる、というよりもそのような初学者こそが第一の読者として想定されているということだ。だが、実際、読むのが難しいと感じられているのならば ― トマスの議論は誤っていないとすると ― 私たちがこの書物に接する際の注意点が誤っているということになるのではないか。では、私たちはどのようなことに意識を向けながら読むべきなのだろうか?
重要なのは、この書物によって、トマスがいったい何を初学者に伝えようとしたのかという点だ。私の考えでは、トマスは「知識」それ自体ではなく、私たちが自ら知識を獲得するための「方法」を教えたのであり、読者も後者に力点を置いて読むべきだ。トマスが私たちに教えていることは非常にシンプルな方法論である。だが、そのシンプルな哲学的方法論の中に、後にハイデガーが『存在と時間』等で展開する、アリストテレス的な存在論のエッセンス(「時間性」や「現存在」の問題)すらも、実は(非明示的な形で)展開されていることを私たちは知ることになる。>付記すると、彼が教えているのは、方法論ですらないかもしれない。私たちが自明であると信じていることを「問う」こと、問い直すこと、そしてその問いから、当初自明であると思われていた、あるいはそれとは異なる結論を、適切な手続きを介して「証明」すること、そのような基本的な過程を重視することを、初学者に教えているのである。もし『神学大全』が、読むにはあまりに大部であると思われるならば、私たちが見るべきなのは、トマスが結論として示している教説の多さではない。むしろ重要なのは、上で述べたような基本的な思考法を自覚しながら常に物事を考えることが、特に初学者(である私たち)にとって実は困難なので、トマスは、その方法を私たちに体得させるべく徹底的な実践練習・思考訓練を課しているという点なのだ。「神の存在証明」と俗に言われる『神学大全』冒頭の問題は、何かの論争の解決のために「神の存在」を証明しようとする企てでは全くない。あくまで、自明視されている問題を、いかに私たち自身の知性によって改めて問い直し、かつ結論を導くことができるかを「学ぶ」ための、最初の問題でしかないのだ。
「神は存在するのか?」という「問い」は、反省前の「神は存在する」という考えに対して、「神は存在しない(かもしれない、しなかったかもしれない)」という次元へと我々を一度開くことになる。神は存在することも、存在しないこともできた。しかし、存在する。その存在することへと至る筋道を、私たちは、歴史とは別の形で、我々の知性の働きのうちでたどり直すことができる。「神は存在するのか?」という「問い」には、まず「異論」が提示される。それは、そうではない・なかったかもしれないという他なる可能性を初学者が考慮する必要があるとトマスは考えたからだ。神は存在しなかったのではないか?しないこともありえたのではないか?という形で開かれた次元において、そこから存在することの肯定(あるいは、時に否定)へと、「証明」という知性の働きのうちで向き直ること。その向き直りの結果は、単に「神は存在する」ことが自明であると考えていた状態とは、次元が異なっている。その次元の異なりにこそ、私たちの「学び」の可能性が潜在しているのである。この点で、(ブランショが言うように)トマスは「哲学」を「教育・教育機関」として確立したといえるだろう。彼は、『神学大全』における「終わりなき問答」を通して、私たちが「学ぶ」ことの「可能性の条件」を提示しているのである。>後半は、その流れで、スコラ学が「神の存在論」によって抑圧したものについて話が展開しています・・・。>最後に、村上春樹と中世神学との類似について話が及びました・・・。
以下のまとめは、博論のイントロの草稿を書いているところから、脇道に(大きく)それて派生したものです・・・。文中にて、「カルロ・ギンズブルク」と称しておりますが、「カルロ・ギンズブルグ」の誤りです。失礼しました。
by adamtakahashi