「コンテンツ」という言葉をめぐる議論~想田和弘氏、伊藤剛氏らのツイートを中心に
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わたくしも、そちらのかけた「伊藤って人」という呪いに順調にはまっております。さすが言葉の魔力の使い手だと感心いたしました。 twitter.com/KazuhiroSoda/s…
2014-10-30 09:00:35言葉には一種の魔力があるから、ある対象をある言葉で呼んでいると、だんだんと実体が言葉に近づいていくものなんですよ。これはオカルトな話じゃなくて、経験的なもの。作品をコンテンツと呼べばそのように扱われるようになるし、人間を人材と呼べばそのように扱われていく。
2014-10-30 08:01:43言葉の魔術云々以前に、人に対する話し方知らない無礼な人ってだけでしょう。芸術家だからって今どきその辺の無礼が免責されるはずもない RT @GoITO: わたくしも、そちらのかけた「伊藤って人」という呪いに順調にはまっております。 twitter.com/KazuhiroSoda/s…
2014-10-30 09:26:05「コンテンツ」ということばを「商品」と同義にとらえているのであれば、それを首相が使ったことに対して「金儲けの道具と<だけ>しか見ていないことの象徴的な物言い」と言って批判するのはわかる。でも「コンテンツ」は「商品」と同義ではないからこそ用いられていることばではないのかとも思う。
2014-10-30 10:48:57ここで、広く「表現されたもの」全般が対価を得る以上「商品」である面を有しているのにもかかわらず「商品」として扱われることが退けられるのはなぜかをざっと考えてみると、おそらく「表現されたもの」には、「商品になりきらないもの」であるという「装い」によって価値づけられることに行きつく。
2014-10-30 10:50:58逆の言い方をすると「表現されたもの」全般には、「商品ですよ」という「装い」を取ってしまうと「商品」としての価値が減じてしまうという回路があるってことですね。
2014-10-30 10:51:54もちろん「表現されたもの」には、それこそ人との出会いと似て、それが個人にとって「かけがえのないもの」になる、つまり「交換不可能なもの」になるという面が大きくある。だから「商品」になりきることができないとも考えられる。
2014-10-30 10:53:10しかし、誰か個人にとって、対価を支払って購入した(金銭と交換した)にも関わらず「かけがえのないもの=交換不可能なもの」になるモノは、いわゆる「表現されたもの」に限らない。たとえば「家屋」や「車」などがそうだし「服」もそう。「車」や「服」はかなり「表現されたもの」に近づく。
2014-10-30 10:55:06で、「コンテンツ」ということばは、わたしとしては「商品ではあるが、商品であるという装いを取ることで価値が減じるおそれの多い、表現されたもの全般」を指すことばとしては、決して悪くないというか、「商品性」と「固有性」のせめぎあう感じをむしろ掬い取った言葉のようにも思えるのですが。
2014-10-30 10:59:37@GoITO 商品力や社会的要/不要に接続し易い読みをされ易い言葉と思います。教養など個人の領分が社会的価値の尺度に回収されるような、本源的気持ち悪さを想起し易くもあろうかと。
2014-10-30 11:08:57@hachipro 教養についてちょっと補っておくと「コンテンツによってできている」というのは、極論としては想定できますよねという意味です。でも極論は極論でしかないわけで、たとえば数学の公理などははたして「コンテンツ」と見なしうるのか? という話が出てきてしまう。
2014-10-30 11:10:28@hachipro で、いま「数学の公理」などという、これまた別の方向に極端な例を持ってきたわけですが、それこそ「人類が共有しうる真理」とみなされるようなものも「教養」に含まれてしまうわけで、それを「個人の領分」に限って考えてよいのか? という問いも出てきます。
2014-10-30 11:12:07個人的には、「コンテンツ」よりは「エンタメ」という言い方を最近は意図的にするようになってる。それは表現形式が同じでも、中身によってビジネスモデルが相当異なるし、ライブ系が強くなって、「コンテンツ」が本来含意する貯蔵可能性と相性が悪くなってきたから。
2014-10-30 12:10:03そうそう。「映画」から「映像」に向かう延長に「コンテンツ」の語はある。 RT @iwa_jose: 「コンテンツ」ということばがひろく使われるようになる状況は、映画研究の文脈で「映画」ではなく「映像」という概念で考える必要が訴えられるような状況と、無縁ではないのだろうと思う。
2014-10-30 12:14:44でも、オイラの経験上、「映画」を奉じる人は、それを「映像」と一括りにされるのを嫌う傾向がある。それはよくわかる。何かと一括りにされるのは、大事なものの特別性を否定される気がするのだろう。それは一緒に一括りにされる別のものへの蔑視感とは全然違う次元のこととして。
2014-10-30 12:16:23