「黒塗り」の断罪。差別と抑圧。
- ecrits0313
- 8312
- 4
- 2
- 69
@hbnk 現在のラッツ&スターのメンバーは黒塗りが差別行為としてあったことを知っているはずです。それなのに今またやる。リスペクトなどという言葉で誤魔化していいことではありません。
2015-03-05 18:41:49@ecdecdecd 繰り返しますが「黒塗りが差別行為としてあった」のは合衆国のみの文化的現象だと私は考えます。その点についてのお考えをお聞かせ下さい。黒塗りという行為がもともと持っている多様な意味は合衆国の文脈だけに収束させるべきではないというのが私の趣旨です。
2015-03-05 18:44:39@hbnk 言い換えます。本人たちは否定的な真似のつもりはないでしょう。しかし彼らも前回批判された過程てわ黒塗りが否定的な真似であったことを知っているはずです。
2015-03-05 18:45:26@ecdecdecd そのような批判が正当であるとシャネルズ/ラッツ&スターのメンバーが納得したのなら、黒塗りを続けることは二枚舌です。しかし合衆国ツアーを経て、自分たちのレスペクトは理解してもらえた、と彼らは思っているのではないですか。詳しいことは知らないのですが。
2015-03-05 18:47:38異なる文化の文脈で異なる意味が付与されていたとしてもですか?(人種差別一般に荷担していたとしても)歴史的・地理的に限定される、当該の人種差別に荷担していない人間が、自国文化内でやることについてもそれだけの配慮が必要だと? @ecdecdecd
2015-03-05 18:50:52私には「わざわざそれを真似る」という言葉遣いが気になります。「真似る」こと自体を否定的に捉えられているのでは?「物真似」行為を崇高だと考える日本と、ユダヤ=キリスト教的伝統の反表象主義が根づく合衆国では違う判断がされているはずです。@ecdecdecd
2015-03-05 18:56:01九十年代フェミニズム演劇は差別や抑圧の歴史とその表象の結びつきを積極的に組み替えていくことに意義を見出したが、人種差別とその表象を組み替えこうとするウースターグループの実験はひどく批判された。WASP的価値観で成り立つ『わが町』を黒塗りの白人/ユダヤ人俳優が演じる『ルート1と9』
2015-03-05 19:04:06は、人種主義の不毛さを諷刺し、黒塗りの表象を無効にすることが意図されていたが、観客批評家の「ナイーブな」反撥によって助成金カットまで追い込まれた。だがそこで行われた議論は無駄ではなく、表象の政治学についてのより開かれた見通しは共有された。黒人俳優が白塗りでリンカーンを演じる
2015-03-05 19:09:49スーザン・ロリ・パークスの『アメリカン・プレイ』やスパイク・リー『バンブーズルド』等はその延長線上に生まれたものだといえるだろう。合衆国内ではそのような動きが生まれている一方で、素朴な表象批判が「合衆国の文脈」なるものに依拠して日本国内でされるのは端的におかしいと思うのだけれど。
2015-03-05 19:15:50@ecdecdecd 最初期シャネルズの黒塗りの動機は「真似して本物になりたい」というものでした。そこには崇高さへの同一化の欲望があります。そして崇高さへの同一化の行為自体が、日本では神聖な行為として捉えられてきました。イタコの口寄せから、神への奉納芸としての祭礼まで。
2015-03-05 19:29:20@hbnk 黒塗りが否定的な真似だという歴史を知らない段階ならそんな理屈も通るかも知れません。しかし彼らはもう知っているのではありませんか?それなのにまたやる。だから批判している。
2015-03-05 19:37:39@ecdecdecd 同じことの繰り返しですが「黒塗りが否定的な真似だという歴史」は合衆国のものです。日本では黒塗りに別の意味がある。そのとき合衆国の歴史を優先させるロジックは何なのでしょうか。差別はいけないのは明らかですが、差別の表象を固定的なものとして捉える理屈がわからない。
2015-03-05 19:42:16@hbnk 僕もラッパーなので同一化の欲望はあります。しかし黒塗りなんて安易な方法は選びません。そんな近道を選ぶのはダサいんですよ。
2015-03-05 19:42:21それはとてもよくわかります。しかしそれを言ってしまうと、ダサいかダサくないかという美学的な問題になるのでは?ECDさんが美学的判断ゆえに黒塗りを批判するのなら全く異論はありません。政治性が担保されてるかのように議論を進めることの有効性を私は問うています。@ecdecdecd
2015-03-05 19:44:43@ecdecdecd その言葉を聞きたかったです。そうすると、それはもう意見の違いになります。私はアウシュビッツの表象は普遍性を持つと考えますが、黒塗りを合衆国の表象体系に合わせて一意的に「差別として機能した表現」と見ることには普遍性がないと考えています。
2015-03-05 19:47:00@hbnk 根本的な勘違いしてませんか?ミンストレルショーの歴史を知ったうえで黒塗りをするというのは黒人を真似ることではなく「黒人を否定的に真似た白人」を真似ることになってしまうんですよ。
2015-03-05 19:52:43@ecdecdecd 「真似ることになってしまう」のは合衆国の歴史に依拠した場合ですよね。合衆国の歴史を知らずに、同一化の欲望ゆえに真似をした人々の行為を、ECDさんは合衆国の歴史に照らして再解釈しよう、と言っています。それはおかしい、というのが私の主張です。
2015-03-05 19:54:27「なりきり文化」については誤解も多いので簡単に。素人義太夫の大流行から、カラオケやコスプレ、「変身」ヒーローものに至るまで「崇拝するものになりかわって同一化したい」という幼稚な欲望にもとづく文化を発展させてきたのが日本の特徴。他の国では幼稚さゆえに、その欲望は抑圧されていた。
2015-03-05 19:29:58@hbnk 前置き。議論がややこしくなるので、措いて下さい。これ、能と狂言の分岐点でもあって、能は物真似演技を否定します。※世阿弥の用法はには踏み込みません。狂言は猿や狐やそのほかを物真似します。重要視しています。だから、笑いであり、批評的です。
2015-03-05 19:50:58面白いので返事してしまいますが、能が演技論として「たんなる物真似」を否定することと、演者が何か別の人間/ものに「なりかわる」瞬間を至高のものだと考えていることは別のことでは? 私は後者の意味で言ったつもりです。 @naonao200170
2015-03-05 20:02:09