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@tamaya8901 実際に手に持って工具で線を刻む動作をしてみると、どうやら「<」が右利き、「>」が左利きの工人が作業をしたものらしいことがわかる。 pic.twitter.com/Uy5irVGKJD
2015-09-03 22:07:41@tamaya8901 恐らく当初は線を手刻みしていたものが、製造効率等の関係で後に全部型でできるように改良したものと推定される。 pic.twitter.com/aKqjZdlZ1Q
2015-09-03 22:08:31@tamaya8901 海軍の丸型の手榴弾、すなわち「手榴弾四型」について、名称の混乱をちょっと整理しておきたい。 pic.twitter.com/kMX2J6e6lA
2015-09-03 22:16:05@tamaya8901 Wikipediaでは、典拠を自衛隊資料として「四式陶製手榴弾」という名称で述べられている。ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B…
2015-09-03 22:17:35@tamaya8901 ところが、少しでも日本軍史料で探してみたことがある人は分かると思うが、実はその名称で検索をかけてもアジ歴や国会図書館、防衛研究所に靖国偕行文庫、いずれでも1点もヒットしないのである。
2015-09-03 22:17:52@tamaya8901 確かに、マニアック極まる兵器であればヒットしないということはあり得る話だが、類似名称や関連語で調べてもあまりに空振りすぎるのである。調べ得た限りでは「四式手投弾」というモノを見つけたが、陸軍の史料であり、この陶器製手榴弾ではない可能性が高そうだ。
2015-09-03 22:19:01@tamaya8901 そこで、これの開発にあたったとされる相模海軍工廠の資料で探すと、「当部にて研究せる攻撃兵器一覧」としてまとめられた表中に手榴弾類では「手榴弾四型」の名称が確認できる。
2015-09-03 22:20:53@tamaya8901 さらに、海軍が終戦後にまとめた引渡し目録を見ると、方々にこの「手榴弾四型」が、しかも相当量あったことが分かってくる。多量に集積されていた例としては、横須賀では61720発、高知では34178発といった具合だ。 pic.twitter.com/XZkN2Wga4B
2015-09-03 22:31:51@tamaya8901 これは米軍が作成したマニュアルで、陶器製手榴弾に関する箇所である。名称は「Type4 Pottery Hand Grenade」とある。「Type4」は「四型」の訳で良いが、「Pottery」が余計だ。 pic.twitter.com/tms5k5zTQt
2015-09-03 22:33:32@tamaya8901 ただ、米軍の他の史料では単に「Pottery Hand Grenade」とか「Ceramic Hand Grenade」 とあるので、米軍的には従来正しい名称が分からないからとりあえず「陶器製手榴弾」と呼んでいて
2015-09-03 22:34:35@tamaya8901 そのうちどうやら「四型」という型式らしいということがわかってきて、その頭に「Type4」を足した、ということではないかと思われる。
2015-09-03 22:35:25@tamaya8901 そして、戦後これを再度日本語に訳した際、「Type4」では元の表記が「四型」か「四式」か分からないので「四式」と訳してしまい、さらに元々なかった「Pottery(=陶製)」もそのまま採られ、「四式陶製手榴弾」になったのが真相と推定される。
2015-09-03 22:35:44@tamaya8901 海軍が開発した陶器製手榴弾である手榴弾四型は、大手陶器メーカーである大倉陶園から相模海軍工廠へ球形花瓶を兵器に転用できないかと申し入れがあったことに始まるとされている。(『相模海軍工廠』163頁)
2015-09-05 00:34:06@tamaya8901 手榴弾四型の構造は下図の通りで、直径76~80㎜ほどの陶器・磁器若しくは半磁器質の球形弾体に、炸薬として八八式爆薬(黒カーリット)を入れる。 pic.twitter.com/vnEHHfa5J6
2015-09-05 00:35:29@tamaya8901 口からはゴム製の信管体を挿入し、その中に火道を接続した雷管を入れて、上部に点火剤をつける。その上は木製摩擦板が被せてあり、摩擦板を外してこれに塗られた摩擦剤で点火剤を擦って着火する。
2015-09-05 00:35:57@tamaya8901 頭部はゴム製の小袋で被覆してあり、体部も防水と滑り止めのため全体がゴム袋で覆われる。頸部には下げ紐がむ結わえ付けられる。ただ、鹵獲品を見るとゴム袋が無いものも多く、劣化で失われたかあるいは資源節約で省略されたのかもしれない。
2015-09-05 00:36:38@tamaya8901 ちなみに私が弾体に現在のゴム袋を被せてみた実験では、保管状態にもよるが1年程度で破れたりベタついてくるものが多かった。
2015-09-05 00:37:07@tamaya8901 弾体の製造は、昭和19年夏ごろに試作が開始され、その後に瀬戸の瀬栄陶器で製造が開始された。さらにそこから有田の有田陶器にも応援を求めた。有田では同年末に大量生産にかかったとされる。
2015-09-05 00:41:13@tamaya8901 ちなみに、瀬栄陶器における一ヶ月の製造量は当初月産12000個であったのが最終的に16000個になり、20年6月に終了している
2015-09-05 00:41:48@tamaya8901 生産中止の命令は、破壊力が予期したほど強くないからとも言われたが 軍が本品生産のため 工場に支給する石炭やオイルの融通がつかなくなったとも見られた、という。
2015-09-05 00:45:09@tamaya8901 このほか、有田近傍の長崎県波佐見、滋賀県の信楽で製造された。それ以外では三重県の伊賀焼で試作が行われていた.。
2015-09-05 00:45:51@tamaya8901 昨年、日本考古学協会の年次大会で立命館大学の木立先生により行われたパネル展示では、石川県の九谷焼製の手榴弾を確認したと発表していた。 pic.twitter.com/QUWc2j309h
2015-09-05 00:57:17@tamaya8901 しかし手榴弾四型より一回り大きい上に器壁がかなり薄く、その他細部の特徴から、手榴弾ではなくチビ弾弾体(制式はガラス製)の陶器製試作品と考えられる。 (むしろその方が重大発見だと思うが・・・) pic.twitter.com/A5V5xp8fO0
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