秀吉の中国大返し、秀次処刑時の家康…「行軍」の距離や移動速度で分かる、戦国時代のあの事件
- gryphonjapan
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@a_ri_no_ri このときの家康は実年齢で52歳。石部から伏見まで約40kmを移動したその日のうちに秀吉に会ってもいる。分かってはいたが、タフ。
2016-04-05 18:51:16こうも家康が速く動けたのは、榊原康政が先行して手配をしているためのようだ。家康は呼び寄せた康政(←徹夜で走って来てます)を三島で一日待ってから、出立している。それもあって、家康の到着はこの超高速移動より速く噂となって京に届いており、『言継卿記』でそれが確認できる。
2016-04-05 18:57:39家康の通常というか、どちらかといえばのんびり移動で1日に30~35km。これが標準でむっちゃ頑張れば1日に100kmはいける。となると京都から高野山までは急げば1日半で着くかな。
2016-04-05 19:58:07この秀次事件のときの家康の1日100km移動と比べると、秀吉の大返しは別に「大」と強調するほどのものではなくなるのだよな。東海道の方が道は整っていて、人数に差があるとしても、ね。
2016-04-05 20:00:21あと、何度も書いているけど、秀次事件は在京がデフォルトだった家康が、ちょうど「不在」のタイミングで起きている。間違いなく、家康がいないときを狙っており、上洛途中の家康に書状で知らせてはいるが、明らかに秀次の死には間に合わない連絡であった。
2016-04-05 20:05:46家康の高速移動の秘密は、『板坂卜斎覚書』に騎馬でも馬の草鞋を替える時はそのまま落伍させ、出立時は数十から百騎いてもその日の宿に到着する際は数騎まで供回りは減ったとある。その日の内に合流出れば良いという考えなのだろう。 この辺の行列維持を無視した点が、高速移動の秘訣かと。
2016-04-05 20:08:26@a_ri_no_ri 同じく「不在」のタイミングだったのが伊達政宗。むちゃくちゃ久しぶりに領国に戻ったのに、彼は直ぐに秀次事件で呼び返されている。(気の毒) おまけに関ヶ原が起きる前まで在京が継続。
2016-04-05 20:11:20@gine_ya 当時は奈良との往来は多く街道は整備されていましたので、興福寺あたりまではかなり速く行けると思います。秀次並に急げば、2日くらいで着けそうでしょうか。
2016-04-05 20:16:26@gine_ya 小姓達や供回りの者たちもいて1日で到着、というのはかなり急いだ結果っぽいですね。落ちゆく秀次が何をそんなに急いだのか、少し気になります。
2016-04-05 20:26:25@gine_ya 関白秀次の切腹という本です。通説に〜という内容で、そこで使者の移動日数や書状の日付が特に取り上げられているため、一連のツイートとなりました。
2016-04-05 20:47:06書状の日付や書いた場所も実は信用ならないときがある。秀次事件のときの書状の通りに家康が移動したとなると、1日100kmどころではない移動区間ができてしまうのだ…。
2016-04-05 20:49:27文禄2年に徳川勢が割と速めの1日40km以上の移動をしたのは理由がある。長く名護屋に留められた後で、もっと早く帰れる予定(家忠日記)だったのに、秀次が熱海温泉に行って不在、という理由で途中の京で予定外の強制在京があったためだ。このときは、早く帰りたいから速かった。
2016-04-05 21:16:02文禄2年の徳川勢が「やった!帰れる!」と喜びのあまり通常より速く動いたのは前後の事情から明らかになる。実は家康が唯一「乱酒」したのもこの文禄2年の帰国直前。秀次が熱海から戻る知らせが入って、「嬉しい!」といつもより飲んだらしい。
2016-04-06 07:35:41脱落者は置いて行くからできる徳川の高速移動手段は、徳川家康が「絶対に脱落しない」という前提があるからこそ成り立つのだというのに気付いて、「52歳でそれをやっちゃう」家康にビビらざるを得ない。
2016-04-06 07:38:37ただ、いい年で頑張ったツケは後で来ていて、この文禄4年の後半あたり、家康は寸白に悩まされている。寸白は真田虫と説明されることが多いが、これ、「腰痛」だったのではないか、と思ったり。
2016-04-06 07:50:42先行あり あとでこちらのまとめにも加える 秀吉の中国大返しから始まった行軍速度の話 - Togetterまとめ togetter.com/li/959483
2016-05-29 22:18:32