"sati"の訳語「気づき」についてのやりとり

仏教語 sati の訳語「気づき」"mindfulness" についてのやりとりをまとめてみました。
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ニー仏 @neetbuddhist

そんなわけで、私が「総合的に考えて『気づき』を適訳とする」理由については以上です。既述のとおり、他により適切な訳があればそちらを用いることにためらいはありませんので、自ら学びつつ、引き続きみなさんのご意見からも、勉強させていただきたいと思っています。

2015-06-15 19:10:26
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

"sati"の訳語「気づき」についてのやりとり - Togetter togetter.com/li/834686 まだ伸びてた。"念"でいいっつぅ人は現場を知らんし、ためにする難癖としか思えん。日本仏教史における"念"の多義性とめまぐるしい用法の変遷を想起して欲しいもんだ。

2015-06-16 13:41:49
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

現代日本語で"念ずる"と言う場合は、完全にanussati(随念)の意味に振れてしまっているし、"念には念を""正念場"などにはawareness,mindfulness と訳される場合のsati に近づくが、その言葉のイメージする範囲が狭すぎて注釈が必要になる。

2015-06-16 13:48:50
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

説明なしに実践すべき内容が相手に伝わる"気づき"、具体的には「瞬間瞬間に起こる感覚の変化に気づいてください」などの日本語表現によって、どれほど多くの日本語話者が仏道のかなめを会得することができたことか。

2015-06-16 13:53:24
田比岡(一柳良悟) @1yagiryow5

ニー仏さんと中村さんが、satiを「気づき」と訳すことの是非を巡って、戦闘している。ここは仏教クラスタの俺が「いわゆる気づき」という訳語を提示してみたい。

2015-06-15 23:01:04
石田一裕 @lokottara

Satiの議論は、落ち着くところがsati=気づきは適訳ということ。これは全く異論なし。 ただしsati=smrtiだから、北伝アビタルマのsmrtiも気づきだろとなるのは微妙。北伝アビタルマや、同じ思想背景を持つであろう瑜伽行派にはそれなりの用語理解の歴史がある。

2015-06-15 23:48:32
石田一裕 @lokottara

さらにsati=smrti=念だから、念も気づきだろとか言われたら、まったく肯首できない。 中国や日本の漢語仏典の解釈とそれに基づく実践の歴史は、中々奥深いところがあったりするものですからねぇ。

2015-06-15 23:52:20
石田一裕 @lokottara

ただ仏典の言葉の理解を原点に立ち返って考察することは大切。 その考察に現在の実践や解釈史を加味することも大切。 あとは差異と、共有点をはっきりさせて、議論を進められればいいね!

2015-06-15 23:55:05
難波修羅 @nanbashura

ニューエイジや癒やしが、伝統宗教より格下みたいな見方には全然同意できないです。井上順孝先生がハイパー宗教という概念で批判されているとおりです。

2015-06-16 14:03:30
石をやっていました @Kieselstein1

「気づき」について。(素人が口を挟む雰囲気でないのでこっそり)現在の日本において「気づき」という言葉はニューエイジ系だけでなく自己啓発方面のお決まりのワードであり、馴染みやすそうでも却って意味をわかりにくくするように思う。私の中では最早マインドフルネスもバズってきた。

2015-06-17 02:57:37
上野 康弘 @hakai_namagusa

Satiについて。もう深追いはしたくないが、瑜伽行派の理解に迫る場合は、『瑜伽論』「声聞地」もそうだけど、「摂事分」の記述にも注意する必要があるかもしれない。ご存じのようにあの章は瑜伽行派による雑阿含経の解釈が披露されてるから。

2015-06-17 14:57:00
上野 康弘 @hakai_namagusa

今、KritzerさんのVasubandhu and the Yogaacaarabhuumi(IIBS, 2005)をぱっとみるとaanaapaanasm.rti にmanaskaaraが関与していそうなことを伺わせる文章がある。

2015-06-17 14:57:55
上野 康弘 @hakai_namagusa

特にyoni;so manaskaara(如理作意)との関係だ。今まであんまり意識したことなかったああ。

2015-06-17 14:58:34
上野 康弘 @hakai_namagusa

ご存じのように世親のsm.rti理解は瑜伽行派の解釈に依拠するところが大きい。今、例の如く、『五蘊論』のsm.rti定義を注釈者・安慧と併せて見ると(ざっとだが)、「以前に把握されたもの(vastu)を忘れんこと(asampramo.sa)」としてる。

2015-06-17 15:00:01
上野 康弘 @hakai_namagusa

安慧によればasampramo.saとは対象の把握を失わんこと(aalambana-graha.naavipra.naa;sa)らしい

2015-06-17 15:00:41
上野 康弘 @hakai_namagusa

同語反復っぽい解釈を示しているし、どういった和訳を採用するか難しいけど、安慧の解釈を見る限り、まとめていうと「気づき」かもしれんよなあと思った。「気づき」は実はすごくうまい訳なのかもしれないと。昔なら「そんなことあらへんわー」と言ったかもしれない。

2015-06-17 15:03:17
上野 康弘 @hakai_namagusa

そしてまた銘記すること(abhilapanataa)とも言われる。安慧は「以前に把握されたもの(vastu)を何度も何度も記憶すること/想起すること(smara.na)と言っている。安慧は言う。こういう銘記ということやってると心が別の対象に散逸することはありまへんで、と。

2015-06-17 15:01:21
上野 康弘 @hakai_namagusa

しかしこのぐらいのやや俯瞰的な訳でも良いんじゃないのと。専門家には怒られるかもしれないが、導入としては良い訳ですよ。北伝・南伝の別とか言ってたが、ちょっとそこの枠を外して今は考えてます。

2015-06-17 15:03:59
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

Satiに関する覚書:厄介なことに仏典が漢訳される過程で、念は sati の他にmanasikaara 作意、vitakka 尋 の訳語としても用いられた

2015-06-18 17:52:09
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

(※玄奘以前の旧訳) 例えば、「正念能生一切功徳、邪念能起一切煩悩」(成実論 巻六)という場合の正念は、yoniso-manasikaara 如理作意の、邪念はayoniso-manasikaara 非如理作意の異訳である。

2015-06-18 17:54:00
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

日本語として熟している「邪念」は、micchaa-sati ではなくayoniso-manasikaara 非如理作意の意味に近いのではないかと思う。先の『成実論』引用文にしても、念をsatiの意味に誤解してもフレーズとしては成り立たなくもないところが悩ましい。

2015-06-18 17:54:43
佐藤哲朗(nāgita) @naagita

……ということを念頭に置いて、日本仏教の祖師法語や禅語録を読み返してみると面白いのではないか? Sati=気づき という和訳にイチャモンつけるのは、それからでも遅くない。

2015-06-18 17:56:51
師茂樹 MORO Shigeki @moroshigeki

ちょっと前のsati/smṛti/念の訳語に関する議論について、すっかり乗り遅れてしまったが、このあいだ大学院の授業で紹介した。>"sati"の訳語「気づき」についてのやりとり - Togetterまとめ togetter.com/li/834686

2015-07-25 00:29:14
師茂樹 MORO Shigeki @moroshigeki

大学院では、現代語訳を試みることで、ある一つの概念に対する思索をこれだけ深めることになるんだよ、だから現代語訳(あるいは英訳)してみようね、みたいな話をした(『論理と歴史』で現代語訳した経験も踏まえつつ)。

2015-07-25 00:32:48
師茂樹 MORO Shigeki @moroshigeki

あと、細かい補足的なことだけど、Artemus B. Engle氏による世親『大乗五蘊論』の英訳本 amzn.to/1CZj7AJ では、不放逸 apramāda に“mindfulness”という訳語を当てている。なるほどー、という感じ。

2015-07-25 00:39:01
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