治療的場面での「活きた」言葉とは何か
- kasega1960
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なお、横田先生が丸山圭三郎氏の「第1言語=制度化された言語」と「第2言語」=「本質言語」論の典拠としたのは「ソシュールの思想」岩波書店 1981年です。
2016-02-06 04:24:40@kasega1960 この本のp.247-255に「外示と共示」という項目があって、そこで第2言語=本質的言語の説明がある。
2016-02-06 10:40:03@kasega1960 「外示(ディノテーション)」とは、「意義(シニフィカシオン)」のことで、《構成された構造》としてのラングに見出される意味、辞書に見出される「語」の定義に近い抽象的な意味で、その言語社会により許容され沈殿したいわば歴史的化石としての最大公約数的な意味群である
2016-02-06 10:41:15@kasega1960 「共示(コノテーション)」には3つの意味があり、1つ目は、一言語内の個々の語ないし記号素に宿る個人的・情感的なイメージである。病院に対する情感的意味は、幼少期から病院暮らしを強いられた人、家族や恋人を病院で死なせた人、一度も病院通いをしていない人では異なる
2016-02-06 10:42:40@kasega1960 2つ目は、一定期間のラングに見出される共同主観的付随概念である。ナチス時代のドイツ人が「ユダヤ人はユダヤ人さ」という言葉を使っていたが、前のユダヤ人は「ユダヤ民族に所属する国民」という外示であり、後のは「けちで、ずるく、不正直な人間」という共示である。
2016-02-06 10:42:57@kasega1960 これらは第2言語ではない。3つ目は、言語の階層の差から生まれる第二次言語(=第2言語)に属し、シニフィアン(表現面)は既成の第一次言語(=第1言語)だが、シニフィエ(内容面)が既存の意味体系にはもともと存在しなかった《意味(サンス)》にほかならない。
2016-02-06 10:43:16@kasega1960 ソシュールは、一次的な日常的な言語を止揚した文学言語が第二次言語であるとは考えず、第二次言語と呼ばれるものにこそ本質的なコトバの姿であり、それが惰性化したものがいわゆる第一次言語であるという認識を定立化したのだ。[終]
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