"sati"の訳語「気づき」についてのやりとり
- southmtmonk
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『ブッダゴーサの著作に至るパーリ文献の五位七十五法対応語』ではsatiは「留意、憶えていること、想起; mindfulness」となっていた。
2015-06-14 19:03:03@jiei_yushi アッタカターに「satiという覚りの肢分について、まず憶えていて想起するという意味でsatiである」といった記事があるように、やはり記憶が密接に関わっているのでしょうね。
2015-06-15 01:27:05@jiei_yushi あと相応部経典にもsatiは「立派な弟子は…(中略)…往時に行われたことも往時に語られたことも憶えていて、次々と想起する。これが、托鉢修行者たちよ、satindriyaである。」とも書いてあるようです。
2015-06-15 01:34:25@jiei_yushi “Satipatthana: The Direct Path to Realization”ですね。これは本当に丁寧で素晴らしいですよね。Bhikkhu Anālayoなどの著作には本当に頭が上がりません……。
2015-06-15 01:41:20【メモ】榎本文雄(編集代表)『ブッダゴーサの著作に至るパーリ文献の五位七十五法対応語 ― 仏教用語の現代基準訳語集および定義的用例集 ― バウッダコーシャⅢ』山喜房佛書林, 2014.4下旬刊行予定 私も共著者で名を連ねております
2014-04-16 08:17:31togetter.com/li/834686 sati に「留意」を充てた張本人ですが、『ヴィスッディマッガ』のsatiの定義は、「枚挙を特性とし、不忘却を本質的な働きとし、監視もしくは感官の対象に直面している状態を附帯する様相とし、堅固な表象あるいは念処を直接因とする」です。
2015-06-15 21:27:03そして「対象に対し堅固に確立しているが故に支柱の如くであり、眼などを監視するので門衛の如くであるのが sati だ」とあります。さて、ではこの5世紀頃の大仏教学者ブッダゴーサの定義を踏まえて、どういう現代日本語をあてればいちばんぴたっと来るのか。
2015-06-15 21:30:10私の留意(心にずっと留めておいて、気をつけている。心に留まっているから、思い出すし忘れない、という感じといえばいいのか)という訳語(これはマインドフルネスの和訳にもなると思いますが)は、「忘れない」「対象に対し堅固に確立している」を一応重視した積りですが、どうでしょうね…。
2015-06-15 21:33:11枚挙 (apilāpana) という特性にしても、ダンマパーラの注釈によるとこれは「忘却しない状態を作るもの (asammuṭṭhakāraṇa)」と、これだけ大々的に無忘却を全面に押し出されると、「気づき」という訳語は当てづらい(あくまでも、文献屋の立場的には、です)。
2015-06-15 21:38:55「仏教用語の用例集(バウッダコーシャ)および現代基準訳語集」の成果はこちらのサイトにて公開されていたのですね。 l.u-tokyo.ac.jp/~b_kosha/html/…
2015-06-15 08:33:38「瑜伽行派文献の五位百法」 の "smṛti" の項目を見てみますと、瑜伽行派文献の英訳においても、memory, mindfulness, recollection と、訳語選択においては、いくつかの選択肢があるようであります。 フランス語訳だと、memoire一本なのかな。
2015-06-15 09:01:16"smṛti"
Boin-Webb [2001: 9]: mindfulness
(その他の瑜伽行派経典)
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~b_kosha/html/index_75dharma.html#other_example
"What is mindfulness (smṛti)? It is non-forgetting by the mind with regard to the object experienced. Its function is non-distraction"
2015-06-15 09:19:22上座部の修道論で念(sati)がどのように位置付けられているか正確にわからないが、どうも瑜伽行派(声聞地)の作意(mamas-kr)に近い気がする。 アビタルマだと念住とか入出息念の念は、念だけど智慧を自性とするとされてるかなぁ。 twitter.com/neetbuddhist/s…
2015-06-14 21:32:33なんとなしに思ったのは、念が記憶だと聞慧に関連しそうということだったが、倶舎論はそんな記述がない。瑜伽論声聞地だと、どうも念には禅定体験が教えと一致していることを把握する機能があるようだ。
2015-06-14 21:35:32しかし、浄土宗になるとこの「念」が、法然の解釈を通して「称」と同義となり、称名念仏の実践となる。 意味は相当変遷ているが、念が修道論に深く関係していることは、ある意味で一貫しているなぁ。
2015-06-14 21:43:57いま kakuyu和尚(@southmtmonk)が色々とRTしてくれてるけど、sati は北伝アビダルマの対応語とは意味のズレがあったりして、それが日本の高度な近代仏教学の成果と、東南アジアやアメリカで語られる「仏教」とのあいだに、認識のズレを生み出す一つの原因にもなっている。
2015-06-14 19:35:27私はパーリ経典に依拠しつつテーラワーダの人たちが語るsatiの訳語としては、現状の(多くは実践者たちで構成される)仏教世界の共通語として、mindfulness(気づき)が総合的に考えて適訳だろうと思うけれども、それだけがこの語に唯一許される解釈であるとは、もちろん考えていない。
2015-06-14 19:42:37むしろ、この語の解釈について南伝と北伝の間にズレが生じているという事実自体が、おそらくは仏教史において本質的な意味を有するので、そこを詳細に跡付けることは基本的に学者さんの仕事だろうとは思うけれども、私にとっても非常に興味深い問題ではあるので、いつか手を付けたい研究ではあります。
2015-06-14 19:51:57togetter.com/li/834686 なんかそこまでの話じゃないと思ってたのに色々とガチの人が参戦してきてたんだな…。
2015-06-15 09:38:54ニューエイジ用語として手垢がついてニューエイジ用語としてしか認識されなくなった「気づき」を本格派を名乗る連中が踏襲してどうするんだ、と。
2015-06-15 09:43:42仏教ではとてもスッゴい重要な意味があるsatiが、mindfulnessと訳されて、それにbased cognitive therapy(認知療法)がつくことで、単なるセラピーにまで矮小化されて、学校の成績やビジネスの役に立つ~みたいな語られ方すんの、どうなん、と。
2015-06-15 10:03:14