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加藤剛で見る日本史

本日のお白洲それまで! 俳優で見る日本史→ http://togetter.com/li/976793
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島の人Part2 @simasyodes

元文元年(1736)加藤剛(2)は寺社奉行となる。 延享2年(1745)加藤剛(16)は誕生。 寛延元年(1748)加藤剛(2)は1万石を得て、大名となり町奉行から大名になった唯一の人物である。 寛延4年(1751)加藤剛(2)は病気から寺社奉行辞任、やがて病死する。 #加藤剛で見る日本史

2018-07-14 13:15:40
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宝暦12年(1762)加藤剛(16)は婚姻して婿養子となる。 明和6年(1769)加藤剛(16)は名主後見として村の祭に関する騒動を仲裁する。(佐原村祭礼騒動) 天明元年(1781)加藤剛(16)は佐原村名主となる。 #加藤剛で見る日本史

2018-07-14 13:16:15
島の人Part2 @simasyodes

天明3年(1783)加藤剛(16)は浅間山噴火での飢饉で地頭所との交渉で年貢免除と御救金を得ることに成功する。(天明の大飢饉) 天明5年(1785)加藤剛(16)は米価値上がりを見越して、米を買い入れ、施しをするなど貧民救済を続け、遂に佐原村は餓死者を出さなかった。 #加藤剛で見る日本史

2018-07-14 13:16:54
島の人Part2 @simasyodes

寛政2年(1790)加藤剛(16)はこの頃から隠居を願い出て、暦学や天体観測をするようになる。(隠居許されず) 寛政5年(1793)加藤剛(1)は誕生。 #加藤剛で見る日本史

2018-07-14 13:17:22
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寛政6年(1794)加藤剛(16)は隠居が許され、翌年に暦学を学ぶ為に江戸へ渡り、息子ほどの年齢差(31歳)がある高橋至時に弟子入りする、この時50歳。 #加藤剛で見る日本史

2018-07-14 13:17:45
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寛政9年(1791)加藤剛(16)は熱心に暦を学ぶ中で正確の暦には地球の大きさ、日本の緯度・経度を知る必要があることに気付き、長い距離の計測から高橋は江戸から蝦夷地の測量を提案される。 #加藤剛で見る日本史

2018-07-14 13:18:18
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寛政12年(1800)加藤剛(16)は幕府から測量を許可され、測量しながら奥州街道から蝦夷地に向かい測量を行う。(第一次測量) 享和元年(1801)加藤剛(16)は前回の蝦夷地測量から幕府の信頼を得て、伊豆から東日本沿岸を測量する。(第二次測量) #加藤剛で見る日本史

2018-07-14 13:18:38
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享和2年(1802)加藤剛(16)は日本海側の陸奥や新潟などを測量する。(第三次測量) 享和3年(1803)加藤剛(16)は駿河、三河などを測量する。(第四次測量) 文化元年(1804)加藤剛(16)は東日本の地図を幕府に提出、将軍徳川家斉もこれを絶賛したという。(日本東半部沿海地図) #加藤剛で見る日本史

2018-07-14 13:18:57
島の人Part2 @simasyodes

文化2年(1805)加藤剛(16)は瀬戸内海沿岸などの西日本の測量をする。(第五次測量) 文化5年(1808)加藤剛(16)は淡路島から四国に渡りこれを測量する。(第六次測量) 文化6年(1809)加藤剛(16)は中山道から九州に渡り、これを測量する。(第七次測量) #加藤剛で見る日本史

2018-07-14 13:19:27
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文化8年(1811)加藤剛(16)は前回の九州地方の残りと種子島も測量する。(第八次測量) 文化11年(1814)加藤剛(16)は伊豆諸島を測量する。(第九次測量) 文化12年(1815)加藤剛(16)は江戸府内を測量する。(第十次測量) #加藤剛で見る日本史

2018-07-14 13:20:01
島の人Part2 @simasyodes

文化14年(1817)加藤剛(16)は今までの測量結果と間宮林蔵の蝦夷地測量のデータを合わせて地図の作製が始まるが、体調を崩すようになる。 文政元年(1818)加藤剛(16)は地図完成を見ることなく、病死。 #加藤剛で見る日本史

2018-07-14 13:20:33
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文政3年(1820)加藤剛(1)は各地で剣術修行に明け暮れていたが、上州で馬庭念流小泉弥兵衛を破りで当地で自身の北辰一刀流を広めようと伊香保神社へ額を奉納しようとするが馬庭念流一派に阻まれ上州から撤退する。(伊香保神社掲額事件) #加藤剛で見る日本史

2018-07-14 13:20:58
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文政4年(1821)加藤剛(16)が見ることはできなかったが弟子らの尽力で、日本地図を完成した。(大日本沿海輿地全図) 文政5年(1822)加藤剛(1)は江戸品川(後に神田於玉ヶ池)に剣術道場「玄武館」を開き、北辰一刀流が広がっていく。(江戸三大道場) #加藤剛で見る日本史

2018-07-14 13:21:26
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文政13年(1830)加藤剛(5)は誕生。 天保6年(1835)加藤剛(5)はこの頃から学問の頭角を表す。 天保12年(1841)加藤剛(17)は誕生。 天保13年(1842)~弘化4年(1847)?加藤剛(7)は鹿児島にて誕生。 #加藤剛で見る日本史

2018-07-14 13:26:09
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嘉永3年(1850)加藤剛(5)は九州、江戸などを遊学、佐久間象山に学び、宮部鼎蔵らと親交を深める。 嘉永5年(1852)加藤剛(5)は東北遊学の為に脱藩して士籍剥奪などの処分を受ける。 嘉永7年(1854)加藤剛(5)は外国遊学の為にペリーの艦隊に密航を企てるが果たせず、投獄された。 #加藤剛で見る日本史

2018-07-14 13:26:33
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安政2年(1856)加藤剛(1)は晩年は水戸で剣術師範などを努めていたが病死。 安政4年(1857)加藤剛(5)は出獄、叔父が主宰していた塾を引き継ぎ、やがて加藤剛(17)の塾生となり後の時代を築く面々を育てる。(松下村塾) 安政5年(1858)加藤剛(17)を加藤剛(5)は推薦で京に派遣された。 #加藤剛で見る日本史

2018-07-14 13:26:50
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安政5年(1858)加藤剛(5)は倒幕を画策したのが発覚し斬首され、加藤剛(17)が遺骸を引き取ったとされる。(安政の大獄) 文久元年(1861)加藤剛(19)鹿児島にて誕生。 文久2年(1862)加藤剛(17)は絶賛テロ行為中(イギリス公使館焼き討ち事件) #加藤剛で見る日本史

2018-07-14 13:27:09
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文久3年(1863)加藤剛(17)ら5人はイギリスに留学する。(長州ファイブ) 元治元年(1864)加藤剛(17)は急遽帰国して戦後処理に当たる。(下関戦争) 元治元年(1865)加藤剛(17)は高杉晋作と決起し、藩は倒幕に傾きやがて明治維新に繋がっていく。(攻山寺挙兵) #加藤剛で見る日本史

2018-07-14 13:27:30
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慶応2年(1867)加藤剛(7)はフランスに留学していたが「生涯のライバル」と遭遇、そこには幕府と薩摩の争いがあった。(パリ万国博覧会事件)  #加藤剛で見る日本史

2018-07-14 13:27:59
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慶応4年(1868)加藤剛(20)は駿河湾で新政府軍と交戦して討ち棄てられた幕府軍の遺体を独断で収容する。これで山岡鉄舟らと交流を深める。 #加藤剛で見る日本史

2018-07-14 13:28:52
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明治4年(1871)加藤剛(17)は欧米各国を歴訪する。(岩倉使節団)なお女癖はひどい模様。 #加藤剛で見る日本史

2018-07-14 13:29:40
島の人Part2 @simasyodes

明治13年(1880)加藤剛(19)は外務省入省。 明治14年(1881)加藤剛(17)は立憲体制で大隈重信と対立、しかし国会開設を約束して大隈は最終的に下野する。(明治十四年の政変) 明治15年(1882)加藤剛(19)はロンドン大使館に赴任中に憲法調査で渡英していた加藤剛(17)と知り合う。 #加藤剛で見る日本史

2018-07-14 13:30:03
島の人Part2 @simasyodes

明治17年(1884)加藤剛(6)誕生。 明治18年(1885)加藤剛(17)と李鴻章との交渉に加藤剛(19)は随行している。また、加藤剛(14)は鹿児島にて誕生して加藤剛(3)は海軍平学校に入る。(甲申事変・天津条約) #加藤剛で見る日本史

2018-07-14 13:31:23
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明治22年(1888)加藤剛(17)が策定に携わった憲法が発布された。(大日本帝国憲法) 明治23年(1890)加藤剛(3)は測量艦「海門」乗り組みとなり、この頃に加藤剛(20)と知り合う。 #加藤剛で見る日本史

2018-07-14 13:31:57
島の人Part2 @simasyodes

明治27年(1894)加藤剛(17)は東学党らの混乱から朝鮮半島へ派兵、やがて清国と戦端を開く。(甲午農民戦争・日清戦争) #加藤剛で見る日本史

2018-07-14 13:32:53
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