2019年3月 京都の歴史旅

2019年3月に訪ねた京都の旅。平安時代~幕末まで大好きな日本史にまつわる寺社仏閣や石碑などをめぐりました。
3
前へ 1 ・・ 6 7 9 次へ
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

伏見口の戦い 激戦地跡 (京都府京都市伏見区南浜町) 江戸時代、京へ向かう高瀬舟、大坂へ向かう三十石船、山城へ向かう淀二十石船、宇治へ行く芝舟など、千数百隻にもおよぶ船運で賑わった伏見港の中心がこの京橋付近でした。 #京都の歴史旅 #幕末 #鳥羽伏見の戦い pic.twitter.com/yaTiLLOFSq

2019-04-22 20:28:05
拡大
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

京都の豪商・角倉了以による高瀬川の開削で、洛中と伏見が船運で結ばれるとさらに発展します。 ここから蓬莱橋北詰を結ぶ南浜の一帯には、大名の宿泊する本陣が4軒、家臣が宿泊した脇本陣2軒をはじめ、39軒の旅籠が軒を連ねていました。

2019-04-22 20:28:06
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

江戸幕府は伏見を伝馬所として位置づけ、問屋場には人足100人・馬100頭が常時用意され、前の宿場から運ばれてきた公用の荷物を積み替え、次の宿場まで搬送するという継ぎ立組織が在りました。 また 一般の荷物を扱う馬借(馬を利用した運送業者)も旅人や荷物でも賑わっていました。 pic.twitter.com/aI4qCQtbjM

2019-04-22 20:28:06
拡大
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

橋の南詰めには三十石船の様に運上金によって幕府に公認された過書船を取り締まる「過書船番所」(過書=通行証)一般の船を検閲する「船番所」 人足、駕籠、馬借の賃料などを掲示する「船高札場」などが設けられていました。幕末の1868年1月26日(慶応4年1月2日)鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、

2019-04-22 20:28:08
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

会津藩の先鋒隊約200名が大坂から船で伏見京橋に上陸、ここ伏見御堂を宿陣として戦ました。 しかし 伏見奉行所に陣を置いた幕府軍や新撰組が民家に火を放ちながら淀方面に敗走したのでこの辺りの多くの民家が焼かれ、大きな被害を受けたといわれます。 #京都の歴史旅 #幕末 #鳥羽伏見の戦い pic.twitter.com/XFABRFvhV5

2019-04-22 20:28:08
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

伏見長州藩邸跡 (京都市伏見区表町 伏見土木事務所前) 伏見長州藩邸跡は京都と伏見を結ぶ竹田街道(府道115号線)沿いで、伏見の水運の中心をなした京橋からほど近いところに在ります。 1864年7月8日(元治元年6月5日)池田屋事変に激怒した長州藩急進派は、国元から軍を率いて京に向かいました。 pic.twitter.com/NZQCaEwYF7

2019-04-23 20:02:13
拡大
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

長州藩家老の福原元僴は約500の兵と共にこの長州藩邸で待機。しかし「藩主の冤罪を晴らす」嘆願は失敗に終わり、長州各軍は一気に京都御所に迫り「禁門の変」を引き起こします。 福原の軍も竹田街道から北上すべく進軍しますが、会津、桑名、大垣藩の阻止にあって敗走。 pic.twitter.com/edN6VFGggn

2019-04-23 20:02:15
拡大
拡大
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

京橋から彦根藩の砲撃を受けて伏見藩邸も焼失してしまいます。 1864年12月10日(元治元年11月12日)西郷隆盛の要求で切腹の沙汰を受けた福原は他の二家老 国司親相・益田親施と共に禁門の変並びに長州征伐の責任を取る形で岩国の龍護寺で自害。享年50でした。 #京都の歴史旅 #幕末 #禁門の変 pic.twitter.com/RmH9boBy2G

2019-04-23 20:02:17
拡大
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

伏見土佐藩邸跡 (京都府京都市伏見区南浜町248−4) 土佐藩の伏見藩邸跡の石碑は、2010年(平成22年)NHK大河ドラマ「龍馬伝」の放映を前に、薩摩藩や長州藩藩邸跡、寺田屋事件で龍馬が避難した材木小屋の跡など6箇所に新設された石碑のひとつで、月桂冠情報センター敷地内に建っています。 pic.twitter.com/AIvIocqzFW

2019-04-24 19:13:47
拡大
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1868年(慶応4年)1月に鳥羽伏見の戦いが始まった時、土佐藩の山内容堂は、これを薩摩・長州と会津・桑名の私闘とみなし、土佐藩士たちに参戦しないよう、伏見藩邸に伝えていました。 しかし 板垣退助を中心とした倒幕派は、この期に乗り遅れまいと薩長軍に合流。新政府軍の一角に連なっていきます。 pic.twitter.com/xpuRye5y72

2019-04-24 19:13:48
拡大
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

会津藩駐屯地跡 (京都市伏見区大坂町) 伏見御堂は桃山時代の慶長年間に東本願寺の第12代法主・教如が創建しました。本堂は徳川家康の居城・向島城の殿舎の遺構を改築したものと伝えられ、 1915年(大正4年)に刊行された『京都府紀伊郡誌』によれば、寺域は徳川家康の寄進によるもので、蓮池を pic.twitter.com/NqseF1wmPj

2019-04-26 16:33:12
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

埋めた事から蓮池御坊とも呼ばれたと記されています。ここを拠点にして教如は家康に働きかけ、七条烏丸に広大な寺領を寄進され、本願寺から東本願寺を分派独立することに成功しました。 1868年1月26日(慶応4年1月2日)鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊約200名が伏見京橋に上陸、

2019-04-26 16:33:14
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

ここ伏見御堂を宿陣としました。翌27日(3日)薩摩藩との間で小競り合いをしている最中の午後4時頃、鳥羽方面から聞こえる一発の砲声に触発され、 御香宮の東の高台に据えた薩摩藩の大砲が火を噴き、伏見奉行所を攻撃した事から伏見の町でも戦いが始まりました。 pic.twitter.com/7N1VOTFNIJ

2019-04-26 16:33:14
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

本堂の畳を楯に鉄砲の撃ち合いがあったともいわれ、建物は大きな損害を受けました。そのため創建当初は建物は東向きに造られましたが、1883年(明治18年)に南向きに縮小して建て替えられました。 1990年(平成2年)建物は老朽化し取り壊され、現在は大銀杏・鐘楼・山門が残されています。 pic.twitter.com/zLzLaTtJft

2019-04-26 16:33:15
拡大
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

料亭・魚三楼 (京都市伏見区京町3丁目187番地) 鳥羽・伏見の戦いは、薩長士連合と江戸幕府軍の間で行われた戦いです。1867年11月9日(慶応3年10月14日)15代将軍・徳川慶喜は大政奉還を行い、その後、朝廷は王政復古の令を出します。 直後、将軍慶喜の辞官と納地が決定されました。 pic.twitter.com/kzdTz34gOW

2019-04-26 20:18:50
拡大
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

これに激怒した江戸幕府軍は、京へと攻め上り 薩長士連合は、これを鳥羽伏見で迎え撃ちました。 この戦は薩長士連合が勝利し、江戸幕府軍は大坂方面へと退却します。伏見の町の南半分は焼失する大惨事となりました。 そんな中、建物の弾痕のみの被害で焼失を免れた所がありました。 pic.twitter.com/3sgcQYa4bP

2019-04-26 20:18:50
拡大
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

それが京都伏見の料亭「魚三楼」です。鳥羽伏見の戦いでは、伏見の町中でも激しい市街戦が行われました。 江戸時代中期から続く料亭・魚三楼では、鳥羽伏見の戦いの銃撃の弾痕が表格子に残っており、実際に見る事が出来ます。 pic.twitter.com/JESTOo7FwL

2019-04-26 20:18:51
拡大
拡大
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1764年(明和元年)創業という歴史をもつ料亭・魚三楼。鳥羽伏見の戦いでは、新政府軍のまかないも担当していたそうです。 銃撃戦の弾痕の残った桟は現在でも表格子として使用しているそうです。 ※手では触れられません #京都の歴史旅 #幕末 #鳥羽伏見の戦い pic.twitter.com/hlPTXmkyGX

2019-04-26 20:18:52
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

伏見奉行所跡 (京都市伏見区西奉行町 桃陵団地内) 鳥羽伏見の戦いの時、京都市街地を追われた会津藩や新撰組がここ伏見奉行所に立てこもって、新政府軍と激戦を繰り広げました。 しかし 御香宮神社に本営を構えた薩摩軍の砲撃を受け、伏見奉行所は炎上し、旧幕派は壊乱してしまいます。 pic.twitter.com/wCe5rkie11

2019-04-26 22:05:30
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

平安時代、貴族の別荘地だった伏見は豊臣秀吉の伏見城築城をきっかけに城下町として発展し 商業と交通の一大拠点となしました。 1624年(寛永元年)その伏見の町を監督するために江戸幕府は伏見奉行所を設置します。寺田屋に投宿していた坂本龍馬を捕縛するために出動したのは pic.twitter.com/K0lIqfzpYX

2019-04-26 22:05:31
拡大
拡大
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

伏見奉行所の手勢でした。鳥羽伏見の戦いでは旧幕府軍の拠点となります。一方、薩摩軍を中心とした新政府軍は伏見奉行所から150m離れた御香宮神社に本営を置きます。 戦いが始まると新政府軍からの激しい攻撃を浴びて奉行所は炎上。旧幕軍側は敗走しました。 #京都の歴史旅 #幕末 #鳥羽伏見の戦い pic.twitter.com/eCYvXivk4S

2019-04-26 22:05:33
拡大
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

御香宮神社 (京都市伏見区御香宮門前町174) 御香宮神社は鳥羽伏見の戦いで、新政府軍(薩摩軍)の本営が置かれた神社です。 新政府軍は旧幕勢力が立てこもった伏見奉行所に向けて大砲で連射したため 伏見奉行所は炎上し、旧幕府側は伏見から敗退しました。 #京都の歴史旅 #幕末 #鳥羽伏見の戦い pic.twitter.com/2aQCqYDKnZ

2019-04-29 21:10:49
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

薩摩軍は当初伏見薩摩藩邸内に待機していましたが、旧幕府の歩兵部隊・会津藩兵・新撰組が伏見奉行所に集結するのを見て、本営を伏見奉行所からほど近い御香宮神社に移します。 旧幕府側は戦力1500以上、対する新政府(薩摩)側はその半数ほどでしたが、 pic.twitter.com/y8v9i3SLfY

2019-04-29 21:10:50
拡大
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

御香宮神社は伏見奉行所を見下ろすような位置に在り、薩摩軍が正確な砲撃を繰り返し加えたため、遂に伏見奉行所は焼け落ちたのです。 pic.twitter.com/WEuGXZ13Lr

2019-04-29 21:10:51
拡大
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

坂本龍馬 避難の材木小屋跡 (京都市伏見区過書町497-2) 寺田屋で伏見奉行所役人に襲われた坂本龍馬は重傷を負いつつもなんとか脱出に成功。 長州藩の三吉慎蔵は龍馬を肩にかけて夜道を逃げ回るうち、大手橋傍の材木小屋を見つけ ここに龍馬を隠したといわれます。 #京都の歴史旅 #幕末 pic.twitter.com/qcS6B6yQIS

2019-05-13 20:46:07
拡大
拡大
拡大
前へ 1 ・・ 6 7 9 次へ