2019年3月 京都の歴史旅

2019年3月に訪ねた京都の旅。平安時代~幕末まで大好きな日本史にまつわる寺社仏閣や石碑などをめぐりました。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

新撰組を抜けて孝明天皇御陵衛士を拝命し、五条橋東詰の長円寺に移りました。およそ3ヶ月後には高台寺塔頭月真院に居を構え 「禁裏御陵衛士屯所」の標札をあげ拠点とします。 第二次長州征伐で幕府が長州に敗北を喫し、既に世の流れは幕府から薩長へと大きく転回しようとしていました。 pic.twitter.com/gyVMyBXKZV

2019-03-15 22:26:30
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伊東は、御陵衛士は新撰組を外部からサポートする立場だと説明しますが、近藤は伊東の動きを警戒していました。 新撰組局長・近藤勇は御陵衛士に送り込んだスパイである斎藤一から、伊東が新撰組屯所の襲撃を計画しているとの報告を受け、伊東の殺害を決意。 pic.twitter.com/r9FbXVnlIP

2019-03-15 22:26:32
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1867年12月13日(慶応3年11月18日)近藤は資金の用立て・国事の相談があるとの口実で七条の妾宅に伊東を招いて酒宴を張り、 伊東の帰宅途中を狙って、新撰組隊士の大石鍬次郎らが待ち伏せ 襲撃します。伊東は暗殺され 御陵衛士は壊滅しました。 #京都の歴史旅 #幕末 #油小路の変 pic.twitter.com/SuvafeyZAE

2019-03-15 22:26:32
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横井小楠殉節地 (京都市中京区寺町丸太町下る東側) 開明派大名で幕末四賢侯の1人・松平春嶽の下で国策立案に尽力した熊本藩士・横井小楠が暗殺された地点が寺町丸太町にあります。 横井小楠は1809年9月22日(文化6年8月13日)家禄150石の熊本藩士・横井時直の次男として熊本城下に生まれました。 pic.twitter.com/vxX5Fn9fyN

2019-03-18 21:58:28
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8歳で藩校・時習館に入学、居寮生となり、講堂世話役を経て1837年(天保8年)に時習館居寮長(塾長)に就任。 江戸に遊学中は幕臣の川路聖謨や水戸藩士の藤田東湖など、全国の有為の士と親交を結びました。伝統的な学問に飽きたらず、時勢に合った改革を志す pic.twitter.com/F1mOkaOkix

2019-03-18 21:58:30
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実学党を造り、私塾・小楠堂を創設。この私塾に福井藩士が入門した事がきっかけとなり、16代越前福井藩主・松平春嶽が小楠を福井藩に招聘しようと熊本藩に働きかけました。 当初、熊本藩は開明的思想の持ち主である小楠を警戒して断りますが、春嶽の再三の要請によりこれを許可します。 pic.twitter.com/nKzezMiy0g

2019-03-18 21:58:30
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小楠は1858年(安政5年)に福井に入り、藩校・明道館で講義を行います。 また、文久年間になると松平春嶽(文久2年に幕府の政事総裁職に就任)の下で幕政改革への提言を行うようになります。 横井小楠は当時の志士たちに極めて大きな思想的影響を与えた人物とされます。 pic.twitter.com/iDNz70No4z

2019-03-18 21:58:31
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幕臣・勝海舟は、天下にある「恐ろしい人物」として、西郷隆盛と横井小楠の2者を挙げています。 また、小楠の指導を受けた福井藩士の三岡八郎(=由利公正)は明治新政府が掲げた「五箇条の御誓文」の起草者の1人となりました。 pic.twitter.com/Z2EwW2k62S

2019-03-18 21:58:33
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小楠は 維新後も新政府に招かれ参与に就任しますが、1869年(明治2年)1月5日、御所への参内を終えた小楠は寺町丸太町を下ったこの地で、開国政策に不満を持つ十津川郷士ら6名に襲われ、落命しました。享年61。 #京都の歴史旅 #幕末 #明治維新 pic.twitter.com/mtk3V9D1HA

2019-03-18 21:58:34
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横井小楠のお墓 (京都市左京区南禅寺福地町86−8 天授庵) 南禅寺天授庵には開国政策に不満を持つ十津川郷士ら6名に襲われ、落命した横井小楠のお墓が在ります。 ※墓所参拝には許可が必要です pic.twitter.com/eVhOM3z9XR

2019-03-19 19:02:55
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(碑文より) 横井家三墓所之記 小楠横井平四郎時存の墓石には碑面に「沼山横井先生の墓」とあるが、"沼山"とは熊本沼山津"四時軒に居住時の号"である。 当所の墓石は高さ一尺位で「肥後故臣参興横井平四郎墓」と刻まれていたが門弟の竹崎津次郎 ( 茶堂 ) と妻・順子が明治七年二月墓参の際に pic.twitter.com/nALZjPgN6p

2019-03-19 19:02:56
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現在の如く改めた。朝廷より御下賜の墓所でありその由来をここに記す。 横井家の菩提寺は熊本往生院で時国の次男・時昭に始まる代々の祖先小楠の兄・時明その次男・大平時實及び小楠の先妻・小川氏ひさ二十五才 その長男 ( 三ヶ月で天逝 ) が葬られている。 pic.twitter.com/HK1moWMZCn

2019-03-19 19:02:58
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東京谷中霊園には時明の妻・不破氏清子その長男・伊勢 ( 横井 ) 左平太、時治と妻・原氏玉子の墓がある。( 小楠の子孫はここ天授庵に眠る ) 平成十四年九月吉日 末裔 横井~ ※~は伏字にしてあります #京都の歴史旅 #幕末 #明治維新 pic.twitter.com/fixAPZXuKS

2019-03-19 19:02:59
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次に訪ねる場所から、しばし幕末から離れます(`・ω・´)キリッ

2019-03-19 22:36:06
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明智光秀の首塚 (京都市東山区三条通白川橋下る東側) 1582年6月21日(天正10年6月2日)明智光秀は「本能寺の変」で主君・織田信長を急襲します。その後、羽柴秀吉に山崎の合戦で敗れます。 光秀は近江の坂本城へ逃れる途中、山科の小栗栖で竹薮で農民に襲われ、最期を迎えました。 pic.twitter.com/R0EB5pkNkS

2019-03-19 23:07:05
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ここは家臣が光秀の首を落とし、知恩院の近くまでやって来た所、夜が明けた為にこの地に首を埋めたと伝えられている場所です。 #京都の歴史旅 #本能寺の変 #明智光秀 pic.twitter.com/1Q3XvQEQLq

2019-03-19 23:07:06
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平家ゆかりの地・六波羅蜜寺 (京都市東山区五条通大和大路上ル東) 六波羅蜜寺は951年(天暦5年)第60代醍醐天皇の第二皇子・光勝空也上人により開創されたお寺です。当初は西光寺と呼ばれていました。 963年(応和3年)空也は鴨川岸に僧600名を集めて大規模な大般若経供養会を行いますが、 pic.twitter.com/bt3c0OJKVF

2019-03-24 23:48:39
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この時が西光寺の創建とする説もあります。当時、鴨川の岸は遺体の捨て場・葬送の場でした。当時、京都に流行した悪疫退散の為、上人自ら 十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曳き廻り 割り茶を立て中に小梅干しと結昆布を入れ、仏前に献じた茶を病人に授け 歓喜踊躍しつつ、 pic.twitter.com/VzjM64BOCG

2019-03-24 23:48:41
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念仏を唱えて病魔を鎮めたと伝わります。空也の死後、977年(貞元2年)に比叡山の僧・中信が中興して天台別院とし、六波羅蜜寺と改称されました。 平安時代末期にはこの付近に「六波羅殿」と呼ばれた平清盛ら平家一門の屋敷が営まれ、その数は5200邸も在ったそうです。 pic.twitter.com/ktANbX58Mo

2019-03-24 23:48:42
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後に鎌倉幕府によって六波羅探題が置かれたのもこの付近です。それ以降天台宗に属しますが、桃山時代に真言宗智積院の末寺となりました。 名称は仏教の教義「六波羅蜜」という語に由来しますが、この地を古来「六原」と称した事に由来するとも考えられています。 #京都の歴史旅 #源氏平家 pic.twitter.com/zureOqvzxY

2019-03-24 23:48:44
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六道珍皇寺 (京都市東山区小松町 大和大路通四条下る四丁目小松町595) 六道珍皇寺は臨済宗建仁寺派の寺院で山号は大椿山。本尊は薬師如来。 8月7日~10日の「六道詣り」や、平安時代の官僚・小野篁が冥界に通ったと伝わる井戸で知られます。この付近が「六道の辻」であるとされます。 pic.twitter.com/VsM83inwiD

2019-03-26 20:10:45
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この寺の所在地付近は、平安京の火葬地が在った鳥部野(鳥辺野とも)の入口にあたり、現世と他界の境にあたると考えられ「六道の辻」と呼ばれていました。 「冥土通いの井戸」は本堂背後の庭にある小野篁が冥界への往路に利用したと伝えられる井戸です。井戸は寺宝展等の特別公開時を除き非公開ですが pic.twitter.com/90MqNFQD62

2019-03-26 20:10:46
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境内から遠くに見る事が出来ます。「六道の辻」は五条通(現在の松原通)沿いの六道珍皇寺門前やその西方の西福寺付近とされています。 創建は782年〜805年(延暦年間)とされ、開基は奈良の大安寺の住持で弘法大師の師にあたる慶俊。※諸説あり pic.twitter.com/AyKPDkUjVj

2019-03-26 20:18:10
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鎌倉時代までは東寺の末寺として多くの寺領と伽藍がありましたが、南北朝時代以降は寺領の多くが建仁寺の所有に転じた事や 戦乱による衰退で中世後期の寺史は明らかではありません。 1364年(貞治3年)建仁寺から聞溪良聰が入寺して再興し、この時に臨済宗改宗。

2019-03-26 20:18:12
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明治時代に入り、一時 建仁寺に併合された時期もありましたが、1910年(明治43年)に独立し、現在に至ります。 #京都の歴史旅 #小野篁 pic.twitter.com/sCiy9sq5VJ

2019-03-26 20:18:12
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