2019年3月 京都の歴史旅

2019年3月に訪ねた京都の旅。平安時代~幕末まで大好きな日本史にまつわる寺社仏閣や石碑などをめぐりました。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

方広寺と豊国神社 (京都府京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町527-2ほか) 方広寺は天台宗の寺院で、豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として木食応其によって1595年(文禄4年)に創建されました。 記録では、1586年(天正14年)に秀吉が奈良・東大寺にならって大仏造立を pic.twitter.com/kSmOlFzI4s

2019-03-27 22:01:11
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決定し、1595年(文禄4年)にはほぼ大仏殿が完成していたようです。当初、全高約19mもあったという木製大仏ですが、初代大仏殿の規模は現在も不明です。 1596年(慶長元年)伏見大地震で大仏は倒壊すると 秀吉は 「うぬは京の町を守るを忘れ、まっ先に倒れるとは慌て者が!」 と pic.twitter.com/pdbbcSaVA5

2019-03-27 22:01:13
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弓矢を打ちつけたという逸話が残っています。その後、豊臣秀頼は1599年(慶長4年)木食応其に命じて大仏(銅造)の復興を図りますが、 1602年(慶長7年)流し込んだ銅が漏れ出たため 火災が起き、造営中の大仏と秀吉が全国六十六州の巨木を集めて建立した大仏殿は烏有に帰しました。 pic.twitter.com/nhbqANRHeo

2019-03-27 22:01:14
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1608年(慶長13年)より再建が開始され、1610年(慶長15年)に地鎮祭と立柱式が実施されて、1612年(慶長17年)には大仏に金箔を押すところまで完成します。 1614年(慶長19年)には梵鐘が完成し、徳川家康の承認を得て開眼供養の日を待つばかりとなりました。 pic.twitter.com/9K0JIZ0FLu

2019-03-27 22:01:14
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【国家安康・君臣豊楽】 の文字が刻まれた著名な梵鐘は三条釜座の鋳物師、名越(名護屋)三昌らによって1612年(慶長17年)に、制作されました。 ところが、家康は開眼供養の延期を命じます。上記の梵鐘の銘文(東福寺、南禅寺に住した禅僧文英清韓の作)のうち、 pic.twitter.com/eHdpj4zzOo

2019-03-28 15:07:36
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「国家安康」「君臣豊楽」の句が徳川家康の家と康を分断し 豊臣を君主とし、 家康及び徳川家を冒瀆するものと看做され、大坂の陣による豊臣家滅亡を招いたといわれるものです。なおこの事件は徳川方の言いがかりとする見方がある一方で pic.twitter.com/J1Bv4XRX2W

2019-03-28 15:07:37
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「姓や諱そのものに政治的な価値を求め、賜姓や偏諱が盛んに行なわれた武家社会において、銘文の文言は、徳川に対して何らの底意を持たなかったとすれば余りにも無神経。 無論 意図的に用いたとすれば政局を弁えない無謀な作文であり、必ずしも揚げ足をとってのこじつけとは言えない。 pic.twitter.com/WLvfpCxHyq

2019-03-28 15:07:38
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片桐且元ら豊臣方の不注意を責めないわけにはいかない」とする指摘もあるようです。大仏自体は大坂の陣の後も残されますが、1662年(寛文2年)に地震で大破しています。 また、この梵鐘は1968年(昭和43年)に重要文化財に指定されています。 #京都の歴史旅 #織豊期 pic.twitter.com/EIhFkHXFPq

2019-03-28 15:07:39
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昨年の京都・大阪の旅でもご紹介しましたが、改めて。 この大坂の陣に関してですが、私のフォロワー様で忍姫様の@shinobu390804 の名著『滅亡から読みとく日本史』に詳しく載っておりますので、ご興味のある方は是非(*・∀・*)ノ pic.twitter.com/4ZOVwXH3fV

2019-03-28 18:17:36
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豊国神社 (京都府京都市東山区茶屋町530) 豊国神社は神号「豊国大明神」を下賜された豊臣秀吉を祀る神社です。豊臣家滅亡と共に徳川家の命により廃絶となりますが、後に明治天皇の勅命により再興されました。 #京都の歴史旅 #織豊期 pic.twitter.com/VuWjFPcLpo

2019-03-28 20:05:47
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主祭神の居城が在った大阪市の大阪城公園や滋賀県長浜市のほか、出身地の名古屋市中村区など各地に豊臣秀吉を祀る豊国神社が存在しています。 1598年9月18日(慶長3年8月18日)に亡くなった豊臣秀吉の遺体は火葬されずに伏見城内に安置されていましたが、※銅像は大阪城公園内に在るものです pic.twitter.com/iY3C2x7yUI

2019-03-28 20:05:49
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死去の翌年の1599年(慶長4年)4月13日、遺命により東山大仏(方広寺)の東方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され その麓に高野山の木食応其によって廟所が建立されました。 1599年(慶長4年)4月16日、朝廷から秀吉自身の望みとは相違して「豊国乃大明神」の神号が与えられます。4月18日に遷宮の儀が行われ、 pic.twitter.com/a76ckQh8Sl

2019-03-28 20:05:50
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社は「豊国神社」と命名されました。なお、豊国神社は豊臣秀頼の希望により大坂城内にも分祀されています。 秀頼自身は本社創建の際には参列しておらず、1611年(慶長16年)の二条城訪問の折に最初で最後となる参拝を行っています。 pic.twitter.com/0LJmhTDd39

2019-03-28 20:05:51
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毎年8月18日の秀吉の年忌には豊国祭と呼ばれる盛大な祭りが行われるようになります。特に慶長9年の豊国祭は「豊国祭図屏風」に描かれるなどして有名です。 しかし、1615年(元和元年)に豊臣宗家が滅亡すると、徳川家康の意向により後水尾天皇の勅許を得て豊国大明神の神号は剥奪され、 pic.twitter.com/OuhmtqvIvo

2019-03-28 20:05:53
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神社自体も廃絶されます。もはや神ではなくなった秀吉には「国泰院俊山雲龍大居士」という仏教の戒名が贈られました。 秀吉の霊は大仏殿裏手南東に建てられた五輪石塔(現:豊国神社宝物館後方)に遷され、秀吉の遺体そのものは霊屋と共に山頂に遺されます。

2019-03-28 20:05:54
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秀吉の室・北政所のたっての願いで社殿は残されたものの、以後朽ち果てるままに放置されました。 1791年(寛政3年)公刊の随筆「翁草」によると、家康の孫・3代将軍徳川家光は豊国神社再興の容認を検討しますが、重臣の酒井忠世に反対され取りやめになったそうです。 pic.twitter.com/FlhnflijEY

2019-03-28 20:05:54
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結局、江戸時代を通して再興が認められる事はありませんでした。1868年(慶応4年閏4月)明治天皇が大阪に行幸した際、 秀吉を「皇威を海外に宣べ、数百年たってもなお寒心させる、国家に大勲功ある今古に超越するもの」であると賞賛し、豊国神社の再興を布告する沙汰書が下され、 pic.twitter.com/ET9nZEEKJb

2019-03-28 20:05:55
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同年5月には鳥羽・伏見の戦いの戦没者も合祀するよう命じられました。 1873年(明治6年)別格官幣社に列格し、1875年(明治8年)には東山の地に社殿が建立され 1880年(明治13年)方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し、遷座が行われます。 pic.twitter.com/13c11VASBT

2019-03-28 20:05:55
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旧福岡藩主の黒田長成侯爵・蜂須賀茂韶侯爵らが中心となり 境内の整備が行われ、1897年(明治30年)には神社境外地の阿弥陀ヶ峰山頂に 明治から昭和期の建築家、建築史家・伊東忠太の設計による巨大な石造五輪塔が建てられ、翌1898年(明治31年)豊太閤三百年祭が大々的に挙行されました。 pic.twitter.com/wrT02Z9efg

2019-03-28 20:05:56
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この工事の際、土中から素焼きの壷に入った秀吉の遺骸とおぼしきものが発見されています。遺骸は再び丁重に埋葬され、122年経った今も阿弥陀ヶ峰山頂で眠っています。 #京都の歴史旅 #織豊期 pic.twitter.com/FGoloxB59M

2019-03-28 20:05:57
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耳塚 (京都府京都市東山区茶屋町533-1) 1592年(文禄元年)から翌年にかけて、1597年(慶長2年)から翌年にかけて豊臣秀吉は配下の軍勢を朝鮮へ侵攻させました。これを「文禄・慶長の役」といいます。 この侵略を韓国では「壬辰丁酉倭乱」と呼び、朝鮮は膨大な損害を被りました。 pic.twitter.com/IqdspkVWeG

2019-03-29 14:22:31
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日本軍は朝鮮の軍民の鼻を切り取り戦功の証明とします。この鼻は日本へ送られ、方広寺門前に鼻を埋め塚を造り 1597年11月7日(慶長2年9月28日)に大法要が営まれます。 この塚をはじめ鼻塚と呼び、後には耳塚と称しました。江戸時代初めには塚の上に巨大な五輪塔が建立されました。 pic.twitter.com/WK1NIMmDJP

2019-03-29 14:22:33
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1898年(明治31年)は豊臣秀吉の三百年忌にあたり 豊公三百年祭が行われ、その時に耳塚とその周囲が整備されました。 #京都の歴史旅 #朝鮮出兵 pic.twitter.com/8zSMjLOvRz

2019-03-29 14:22:34
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養源院 (京都市東山区三十三間堂廻町656) 養源院は浄土真宗遣迎院派の寺院で、蓮華王院(三十三間堂)の東向かいに位置します。養源院の寺名は浅井長政の院号から採られたものです。 1594年(文禄3年)に豊臣秀吉の側室・淀殿が父・浅井長政・祖父 浅井久政らの二十一回忌の供養のために秀吉に pic.twitter.com/b0IXiterBh

2019-04-01 22:27:23
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願って創建されました。浅井氏の菩提寺でもあります。開山は浅井氏の庶流にあたる比叡山の僧成伯法印(伝・長政の弟)です。 1616年6月20日(元和2年5月7日)2代将軍・徳川秀忠正室で、淀殿の妹・崇源院によって、この養源院で開基である淀殿と豊臣秀頼の菩提が弔われました。 pic.twitter.com/DJAFvnj70A

2019-04-01 22:27:24
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